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[[ファイル:Amari Nobuyasu Memorial.jpg|thumb|甘利郷左衛門信康の碑(愛知県新城市)]]
'''甘利 信康'''(あまり のぶやす、生年不詳 - [[天正]]3年[[5月21日 (旧暦)|5月21日]]([[1575年]][[6月29日]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[武将]]。[[武田氏|甲斐武田氏]]の家臣。父は『系図纂要』『甲斐国志』によれば[[甘利虎泰]]の次男で、兄に[[甘利昌忠]](信忠)がいる。「信」あは武田氏からの偏諱か。通称郷左衛門尉<ref>平山(2008)、p.302</ref>。名は他に三郎四郎信景、晴吉、吉利、利重などがある。
 
== 略歴 ==
[[武田信玄|晴信(信玄)]]・[[武田勝頼|勝頼]]2代に仕えた。年代は諸説あり不明だが、[[元亀]]年間([[1570年]]~[[1573年|73年]])には、すでに兄・昌忠の死後に家督を継いでいたらしい。武田家の鉄砲隊将(一説には小荷駄奉行とも)として活躍したが、天正3年(1575年)の[[長篠の戦い]]では勝頼に従い、設楽原決戦に参戦。鉄砲隊を率いて織田・徳川連合軍と対峙、左翼の中核・[[山県昌景]]を支援した。しかし、兵数の差はいかんともし難く、山県たちを失った上に弾薬が尽きると敵陣に突入し討ち死にした。
[[武田信玄|晴信(信玄)]]・[[武田勝頼|勝頼]]2代に仕えた。永禄10年([[1567年]])3月6日には[[真田幸綱]](幸隆)が[[白井上杉氏]]の拠点[[上野国]][[白井城]]を攻略しており、これが初見とされる<ref>平山(2008)、p.302</ref>。同年8月7日の[[下之郷起請文]]では、城景代・今井昌茂・玉虫定茂・六嶋守勝と連名で「庭谷衆」として[[吉田信生]]・[[浅利信種]]に起請文を提出している<ref>平山(2008)、p.302</ref>。[[永禄]]末年の[[武田信玄陣立書]]では信玄本陣を守る鉄砲衆として記載されている<ref>平山(2008)、pp.302 - 303</ref>。
 
永禄10年([[1567年]])には兄の信忠が死去しており、信忠の子・[[甘利信頼|信頼]]が幼少であったため[[名代]]を務めていたとも考えられている。『[[甲斐国志]]』では信康を信忠の子弟とし、天正3年([[1575年]])5月21日の[[長篠の戦い]]で戦死したとしている。『[[甲陽軍鑑]]』では長篠合戦における左翼の[[山県昌景]]隊に「あまり衆」が属していたと記しており、これは信頼を指していると考えられている<ref>平山(2014)、p.224</ref>。『[[信長公記]]』では長篠合戦の戦死者として「甘利藤三」を記載している<ref>平山(2014)、p.247</ref>。『[[宣教卿記]]』でも長篠戦死者に「あまり」を記している。
 
== 脚注 ==
<references />
 
== 参考文献 ==
* 平山優「甘利信康」『新編武田信玄のすべて』新人物往来社、2008年
* 平山優『敗者の日本史9 長篠合戦と武田勝頼』吉川弘文館、2014年
 
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