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妻は結婚当時の上司[[飯田延太郎]]の娘で、結婚後は東京に住居を構え、住民票も一緒に移している。生家は長野県上伊那郡辰野町沢底で跡地は公民館になっている。4人兄弟(男)の総領であった。
 
小説家[[吉村昭]]によれば、小説『戦艦武蔵』(新潮社 1966)を発行したのを機会に戦艦「武蔵」生存者、設計者、建造者(三菱重工)が一同に期した会食を開いた。[[松本喜太郎]](大和型戦艦基本設計者)、[[千早正隆]](武蔵艤装員)、古賀繁一、[[福井静夫]]、池田貞枝(武蔵航海長)らが集まり、[[内藤初穂]]が司会をつとめた。古村も武蔵艦長として招かれており、吉村昭は「死線を越えた人らしい精悍な顔付きだった。その中でも古村は堂々たる体格と風貌で、いかにも大艦長らしい風格があった」と評した<ref>吉村昭『戦艦武蔵ノート』246頁</ref>。会の進行中、内藤が次の話し手を求めたところ、古村(元海軍少将)が不意に「俺に話させろ」と立ち上がった。元海軍大尉だった内藤はその場で直立不動の姿勢になったという<ref>吉村昭『戦艦武蔵ノート』248頁</ref>。
 
戦後は[[山本リンダ]]のファンクラブに入会したり、長唄のコンサートも開いたこともあった。