「奥むめお」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
40行目:
[[1922年]](大正11年)には、新婦人協会の第一目標であり、女性の集会の自由を阻んだ[[新婦人協会#治安警察法第5条改正運動|治安警察法第五条二項の改正]]に漕ぎ着けたが、協会内における路線対立が激化し解散となる。[[1923年]](大正12年)自らの団体[[職業婦人社]]を旗揚げし、[[雑誌]]『[[職業婦人]]』(後に『婦人と労働』→『婦人運動』と改題)を発刊し運動を継続した。
 
消費者運動にも意を注ぎ、[[1928年]](昭和3年)[[婦人消責組合協会]]を立ち上げた他、[[1930年]](昭和5年)には[[保育所|託児所]]兼集会所『婦人セツルメント』(後に『働く婦人の家』に発展)を設け全国展開した。日本生活協同組合連合会の副会長、全国婦人会館協議会会長に就任していた。<ref>ビジュアル日本史ヒロイン1000人263頁</ref>
 
戦時中は[[国民精神総動員運動]]、[[大政翼賛会]]などに積極協力したとして戦後批判される<ref>[[主婦連合会]]による外伝では昭和10年代の記述は殆ど欠落している。</ref>。