「マラトンの戦い」の版間の差分

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== 影響 ==
マラトンの勝利は、アテナイに絶大な自信を与えた。マラトンで戦った市民軍はマラトーノマカイと呼ばれ、アテナイ戦士像の理想となり、古典期の陶芸芸術のモティーフとして大きな影響を及ぼした。また、[[プルタルコス]]によれば、エウクレス(Eukles)なる兵士が完全武装のままマラトンの戦場からアテナイまで走り、「我ら勝てり」と[[福音書|エウアンゲリオン]](良い知らせ)を告げて絶命したという(他の伝承では走者の名をフィリッピデス(Philippides)とするものもある)<ref>どうして馬を使わなかったかについて[[村上春樹]]は「とんでもない距離、ひどい道」『[[サラダ好きのライオン 村上ラヂオ3]]』([[マガジンハウス]][[ 2012年]])の中で、トル・ゴタス『なぜ人は走るのか』([[筑摩書房]][[2011年]])を援用して、ギリシャでは伝令が馬では目立って危ないのですべて足で走るものと決まっていたという。</ref>。これらは後世の創作の可能性が高いが<ref>[[ヘロドトス]]の『[[歴史 (ヘロドトス)|歴史]]』では、Pheidippides(ペイディッピデス、フェイディッピデス)という俊足の伝令がいて、アテネからスパルタへの約246km走ったことは記されているが、エウアンゲリオンのエピソードは全く触れられていない。第6巻105節参照</ref>、これをもとに第1回[[近代オリンピック]]では、[[マラソン|アテナイ-マラトン間の走行競技]]が行われた。
 
アテナイは、遠征軍を撃退したことによってペルシア宥和政策を完全に放棄し、[[紀元前488年]]頃には、僭主残党の[[ヒッパルコス]](ヒッピアスの友人であるが、僭主政治には加担していない)が[[陶片追放]]され、翌年には、マラトンの戦いでペルシア軍と内通し、盾で合戦の合図を送ったとの風説が流れた[[アルクメオン]]家(ペルシア宥和派の一族)の中心人物[[メガクレス]]がやはり陶片追放された。
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