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== 生涯 ==
[[1913年]][[6月1日]]、[[日本統治時代の朝鮮]][[京城府]](現・[[ソウル特別市|ソウル]])出身。[[日本]]を代表する名伯楽と評価されているが、その指導スタイルから、旧時代の代表とされることもある。
 
[[中学生]]のとき、父が病に倒れて生活が苦しくなりそのつらさを走ることで忘れた。
 
[[1938年]]、[[早稲田大学]]卒業。在学中は[[1935年]]に[[箱根駅伝]]1区でトップ、[[1936年]]に1000メートルと1500メートルで当時の日本記録を樹立するなどの実績を残し、1936年の[[ベルリンオリンピック]][[1500メートル競走|1500m]]に出場した。だが[[オリンピック]]では外国選手にまったく歯が立たず、一方、[[マラソン]]では朝鮮半島出身の[[孫基禎]]が金メダルを獲得したことから、「日本人がランニングで世界に勝てるのはマラソンだけ」という信念を抱くに至ったといわれる。ソウル出身であることから孫とも親しかった。
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後に映画監督になった[[篠田正浩]]を指導し、[[東京箱根間往復大学駅伝競走]]では2区に起用したこともある。また、1964年[[前東京オリンピック|東京オリンピック]]の最終聖火ランナーである[[坂井義則]]にランニングの指導を行ったのも中村である。
 
しかし、指導方法に対してOBなど(特に早稲田大競走部OBの重鎮である[[河野一郎]]とは犬猿の仲だったと言われる)から批判が出たため、早稲田競走部監督を辞任した
 
稲田を離れてからは実業団の[[東京急行電鉄|東急]]の監督などを務めた。東急では[[走幅跳]]の[[山田宏臣]]を指導している。
 
その後、[[東京箱根間往復大学駅伝競走|箱根駅伝]]をはじめとする長距離種目で早稲田が弱体化したことから、懇願されて[[1976年]]に復帰。「世界に通用するマラソン選手を育てる」ことをめざし、[[瀬古利彦]]を育て上げた。
 
[[1980年]]、瀬古の就職に合わせ早稲田と兼務する形で[[ヱスビー食品]]陸上部の監督に就任し、瀬古の成功に刺激されたランナーが中村の門を叩くこととなり、「中村学校」の異名を取った。その門下生には、インターハイチャンピオンで早稲田に進んだ[[金井豊]]、[[坂口泰]]、[[遠藤司]]のほか、外部からヱスビー食品入りした[[中村孝生]]、[[新宅雅也]]、[[佐々木七恵]]、[[ダグラス・ワキウリ]]らがいる。
 
その指導方法は独特で、選手を長時間戸外に立たせたまま、陸上とは直接関係のない仏教やキリスト教などを引用した講話をすることも珍しくなかった。また、ヱスビー食品所属の選手は自宅に同居させ、生活の細かな点まで管理を行った。
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口癖は、「マラソンは芸術です」、「'''若くして流さぬ汗は、年老いて涙となる'''」、「'''朝に新しく生まれ、夜は明日の復活を信じて床に就く、一日一日が命のやり取りだ。'''」、「'''一日一生'''(いちじついっしょう)」、「'''天才は有限、努力は無限'''(素質のある選手に対して)」、「'''真鍮は真鍮、磨いても金にはなりません'''(素質のない選手を指して)」。また、「年に一度選手に大輪の花を咲かせるのが私の使命」とも語っていた。
 
しかし、悲願であったオリンピックのマラソン金メダルにはついに手が届かなかった。チャンスだった[[モスクワオリンピック]]は日本がボイコット、[[ロサンゼルスオリンピック (1984年)|ロサンゼルスオリンピック]]では調整の失敗により瀬古が14位と惨敗するした。これは、中村が女子マラソンに出場した佐々木七恵の付き添いで留守の間に瀬古が猛暑の東京で無理な練習をしたこと、それに前後して中村がガンを発症している事実を瀬古が知ったことがその原因としてあげられている。そのため、レース直前まで瀬古はロス入りせず奇策といわれた。
 
[[1985年]][[5月25日]]、[[ソウルオリンピック]]に向け、瀬古の再起を図ろうと苦心し気持ちを切り替えるべく趣味の渓流釣りに出かけた[[新潟県]]の[[魚野川]]で岩から足を滑らせて川に転落した。{{没年齢|1913|6|1|1985|5|25}}。
 
== 主な弟子 ==