「同盟市戦争」の版間の差分

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{{出典の明記|date=2009年5月}}
'''同盟市戦争'''(どうめいしせんそう)は、[[紀元前9190年]]に、都市国家[[共和政ローマ|ローマ]]と同盟を結んでいた[[イタリア半島|イタリア]]各地の都市国家や部族が、[[ローマ市民権]]を求めローマに対し蜂起した[[戦争]]である。「ローマ連合」は実質的には一つの国として機能していたため、戦争というより[[内戦]]に近い。
 
== 背景 ==
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ただしこの問題は、当初は貴族と平民の間の不平等であった。ローマの貴族の大土地所有によって没落した自作農は、ローマ市民であろうと同盟諸都市の市民であろうと同じであった。また前述の通り、同盟諸都市の有力者もローマの元老院に議席を持つ者は大勢おり、つまり立派なローマ貴族であった。
 
事態が変化するのは、ローマが軍制改革を行って以降である(詳細は[[マリウスの軍制改革]]を参照)。かいつまんで述べれば、徴兵制から志願制となり、ローマ市民においては貴族のみが利益を得るシステムは解消され、平民に対して自作農については兵役免除、無産者については軍隊に吸収し給与を払う形で救済がなされた。しかしながら国内自治、内政不干渉の名の下でこの改革の適用はローマ市民に限られ、同盟諸都市の市民は置き去りにされてしまったのである(同盟市諸都市でローマと同じ軍制を導入しようとも、資金である属州税はローマが独占しているので不可能である)。またローマ市民の軍が犠牲の多い中核部隊を担うことも無くなった。
 
このような状況の中で他の都市に住むローマ市民権を持たない人々の間に、ローマ市民権を要求する機運が高まっていた。しかしローマは、ローマ市民権が旨味を増していった時期になっていたため、これを出し惜しみするようになってきたのである。
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ローマ軍の強さは、高度にシステム化・マニュアル化された軍制にあり、それゆえ稚拙な戦術しか持たない蛮族や、司令官の力量に由来する他国の軍に対して勝利を収めてきた。しかしこの戦争では、それまで同じ軍隊で生活をしていた将官や兵士同士が戦うようになったため、叛乱側もローマの戦法は知っており、各地で激戦となった。ローマ側で特に目覚ましい戦果を挙げたのが[[ルキウス・コルネリウス・スッラ]]であった。
 
紀元前90年の冬、ローマは各勢力に妥協してローマ市民権を与えるユリウス市民権法を[[執政官]]である[[ルキウス・ユリウス・カエサル (紀元前90年の執政官)|ルキウス・ユリウス・カエサル]](独裁官[[ガイウス・ユリウス・カエサル]]の伯父)が提出する。この法案の可決以降戦線は縮小し、抵抗する者はいたものの[[紀元前89年]]には事実上終結した。敗者に対する寛大な処置が戦いの収束を加速したことも挙げられよう。そしてローマも[[第一次ミトリダテス戦争]]へ対処するために収束を急ぐ必要もあった。
 
== 影響 ==
この結果、イタリア各地にあった都市国家はローマを構成する地方都市となり、ローマ連合は発展的に解消して[[イタリア本土 (古代ローマ)|本国イタリア]]となり、ローマも都市国家ではなくなり領域国家として歩むことになった。
 
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