「島津義虎」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Hesolla (会話 | 投稿記録)
m編集の要約なし
編集の要約なし
26行目:
[[天文 (元号)|天文]]5年([[1536年]])、島津氏薩州家第5代当主・[[島津実久]]の長男として誕生。母は薩州家第3代[[島津成久]]の娘。[[室町幕府]]12代[[征夷大将軍|将軍]]・[[足利義晴]]より[[偏諱]]を賜い、'''晴久'''(はるひさ)と称す(義晴の死後であろうか、のちに'''陽久'''(読み同じ)に改名している)。
 
父・実久は薩摩国の[[守護]]職の座を巡り、[[伊作家]]の[[島津忠良]]・[[島津貴久|貴久]]親子と対立したが、義虎は逆に従う姿勢をみせていた。実久が忠良親子に敗れ出水にて隠棲すると、[[島津義久]]の長女・[[於平]]を妻とすることにより和解を図り、以後臣従した。ただし、実久と忠良親子の戦いは実久が没するまで続き、義虎の代になって臣従したとする説もある<ref>山口研一「戦国期島津氏の家督相続と老中制」(初出:『青山学院大学文学部紀要』第28号(1986年)/所収:新名一仁 編『シリーズ・中世西国武士の研究 第一巻 薩摩島津氏』(戎光祥出版、2014年) ISBN 978-4-86403-103-5)</ref>
 
一方で、島津宗家を継いだ伊作家へ臣従後も、しばしば独自とみられる行動をとることがあった。[[永禄]]6年([[1563年]])には上洛して13代将軍・[[足利義輝]](義晴の子)に拝謁、重ねて一字拝領し、この頃に名乗っていた陽久から'''義俊'''(よしとし)、更には'''義虎'''へと改名している。また、東郷の領主である[[東郷重治]](大和守)とは、義虎の家臣である[[湯田成重|湯田兵庫成重]]の秘蔵の飼犬が盗まれた事に端を発す諍いにより、[[天文 (日本)|天文]]16年([[1547年]])から約20年間争っており、たびたび合戦を繰り返した。更に永禄8年([[1565年]])3月には叔父の[[島津忠兼 (薩州家)|島津忠兼]]に[[肥後国]]天草の[[長島 (鹿児島県)|長島]]攻略を命じている。これは天文23年([[1554年]])に[[相良晴広]]により長島を追われた[[長島鎮真]]を庇護していたことが背景にあり、鎮真に代わって長島領主となっていた[[天草越前守]]を攻め殺して、長島を薩州島津家の領有としている(なお、義虎は同7月8日には忠兼を謀殺している)。
38行目:
天正13年([[1585年]])、死去。享年50。
 
== 脚注 ==
<references/>
== 参考文献 ==
*『[[本藩人物誌]] 鹿児島県史料集8』(鹿児島県立図書館)