「敦賀空襲」の版間の差分

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== 詳細 ==
敦賀は、空襲を受けた都市の中では最小規模だったが、軍需工場の存在や港湾拠点という理由で3回空襲を受けている。特に第一空襲が日本海側の港町にも関わらず、大編隊で襲撃する等きわめて激しかった
====敦賀大空襲(第一空襲)====
7月12日、[[B-29 (航空機)|B29]]の編隊が市の東部に来襲し、周辺部から中心部へと[[焼夷弾]]による波状攻撃を繰り返したが、この時以下の敦賀の状況から戦闘が発生している。
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当時、敦賀は中京地域や阪神地域から軍の部隊や物資、市民らが疎開先として避難していた。敦賀市史によれば、空襲を受けるはずがないと油断があったという。それでも敦賀は日本海側有数の港であり、大陸側との航路が多数設定されていた手前、防空設備も一応整えていた。折しも受けるはずが無いという希望を打ち砕くことになり市史史上未曾有の大災難となったのである。
 
戦時中敦賀には、松原などに[[高射砲]]陣地が築かれ、寄航する艦船(当時の艦船は高射砲など、武装が施されていた)にも[[高角砲]]などが装備されていた、さらに敦賀連隊の本拠、疎開してきた軍の部隊の存在もあり田舎町としては比較的戦力や防空体制が整っていた。そのため折しも夜9時ごろに出された福井県空襲警戒警報などを駆使し迎え撃つことになり、空襲時敦賀に駐屯する日本軍は[[気比の松原]]の高射砲陣地や、停泊中の艦船から高射砲弾を撃ち上げ激しく抵抗。アメリカ側は敦賀市街を東から西へ横切ったが、これがその進路上に防空陣地等日本側の陣地をも横切ることになり戦闘は熾烈さを極めた。炸裂した高射砲弾の破片が雨あられのように山奥の和久野地区など敦賀中に降り注いだと言う。米機の攻撃は翌13日午前2時頃まで続き、『敦賀空襲・戦災誌』によれば、一連の交戦で日本軍守備隊1名が戦死、市民が火に捲かれ109名が死亡、市街地の85パーセント以上を消失・焦土と化するなど戦闘・空襲により甚大な被害が出た。後の30日には停泊中の艦船に被害が出ているが、このときの艦船にどのような被害が出たのかは資料に記載が無く、次いでアメリカ側の損害なども資料が無く共に一切が不明である。
 
死者は109名、負傷者は201名である。アメリカ側の記録では160名。
 
以上は『敦賀空襲・戦災誌』や敦賀の歴史によった。
====第二空襲====
[[7月30日]]の[[P47]] 6機による空襲。死者15名。市史によると、敦賀にて日本軍歩兵側が小銃を発砲するなど米機と交戦。交戦地区は不明。
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他にも公式記録に残っていない市民らの証言を集めた証言集のみによる空襲も記録されている。また機雷投下のために多数の米機が6月ごろより頻繁に進入していた。当時の報道規制下においても、6月期の[[福井新聞]]には、「B29が機雷投下のために本県に進入した」などと連日のように報道したと記録に残る。なお敦賀大空襲時、敦賀を襲撃した編隊には機雷を搭載した爆撃機も同行しており(若狭湾・敦賀湾に投下)、このことから敦賀の重要さは戦争末期につれ増している。
 
== 関連項目 ==