「シャンパーニュの大市」の版間の差分
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== 概要 ==
シャンパーニュは、[[マース川|マース]]・[[モーゼル川|モーゼル]]・[[セーヌ川|セーヌ]]の河川に囲まれ、輸送手段として船が多用された当時の[[ヨーロッパ|欧州]]において、東西南北に通ずる絶好の地理条件を持っていた。ローマの詩人である[[:en:sidonius apollinaris|シドニアス・アポリナリス]]が5世紀にシャンパーニュと[[:en:Brie (region)|ブリ]]の市について記している<ref>ウォルフォード 『市の社会史』 244頁</ref>。▼
[[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]、[[ジェノヴァ共和国|ジェノヴァ]]などの[[イタリア]]商人の支配する地中海商業圏と、[[ハンザ同盟]]が主軸を成した[[北ヨーロッパ|北欧]]商業圏が、中間地点であるシャンパーニュで接触交易を行なった。イタリア商人のもたらす香辛料、染料、医薬品、宝石、絹織物など、軽くてかさばらない'''東方奢侈品'''と、北欧・[[イングランド]]・[[ロシア]]からもたらされた羊毛、毛皮、蝋、蜂蜜、ニシン、木材、小麦、卑金属類など重くてかさばる'''産業財・生活必需品'''が、一堂に取引された大国際市場であった。また、この地域を統治した[[シャンパーニュ伯]]も、対外戦争よりもこの市場を保護した方が利益になると考え、市場の自主性を保証して[[1154年]]にラニーの市税を免除するなど、この市場を訪問する商人の保護に尽力することと引き換えに、領内の経済を活性化して富を得ることになった。▼
▲[[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]、[[ジェノヴァ共和国|ジェノヴァ]]などの[[イタリア]]商人の支配する地中海商業圏と、[[ハンザ同盟]]が主軸を成した[[北ヨーロッパ|北欧]]商業圏が、中間地点であるシャンパーニュで
▲シャンパーニュは、[[マース川|マース]]・[[モーゼル川|モーゼル]]・[[セーヌ川|セーヌ]]の河川に囲まれ、輸送手段として船が多用された当時の[[ヨーロッパ|欧州]]において、東西南北に通ずる絶好の地理条件を持っていた。
[[14世紀]]に入ると、シャンパーニュ伯であった[[ルイ10世 (フランス王)|ルイ10世]]がフランス王に即位し、シャンパーニュは
== 開催の手続き ==
平原に位置する[[トロア]]、[[バール=シュル=オーブ]]、[[ラニー]]、[[プロヴァン]]の4都市で1回あたり40~50日間、年6回持ち回りで市を開いた。
*1月 - ラニー
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大体次のような順序で市が開かれた。
:「織物の市」→「皮の市」→「ハカリの市([[香辛料]]や油、紡ぎなど秤で量を計って売るものの他、[[家畜]]、刃物、雑貨類など多岐にわたる)」
▲[[14世紀]]に入ると、シャンパーニュ伯であった[[ルイ10世 (フランス王)|ルイ10世]]がフランス王に即位し、シャンパーニュは国王領となる([[1314年]])。この頃から、国家財政の悪化につれて税金が高騰するとともに、イタリア商人が[[方位磁針|羅針盤]]を手に入れて[[フランドル]]([[北海]]に[[1274年]]にジェノヴァの[[ガレー船]]が姿を見せ、[[1277年]]にジェノヴァ商人スピノラ家がフランドルの[[ズウィン|ズウィン湾]]に到達)・イングランドまで直行するに至って、シャンパーニュの大市は国際市場としての役割を終えた。
== ゲーム理論による考察 ==
個人的関係によらない、大規模な市場が発達した裏には、大市の[[裁判所]]([[:en:Lex mercatoria|Lex mercatoria]])の存在・機能があったのだという、[[ゲーム理論]]を用いた考察が、[[スタンフォード大学]]教授[[ポール・ミルグロム]]によって為された。裁判所(強制力を保持しない)が、事故情報の記録を行い照会・媒介を提供することで、集団的懲罰に近い機能を有したことが市場の発達の一因であるということである。ただし、同大学教授[[アブナー・グライフ]]は、匿名性の高い空間における個人の特定困難性、(平均寿命の低い当時の)評判メカニズムの時間非整合性を理由に懐疑的である。
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* [[コーネリアス・ウォルフォード|コルネリウス・ウォルフォード]] 『市の社会史』 [[中村勝 (歴史学者)|中村勝]]訳、そしえて、1984年。
<references/>
== 外部リンク ==
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