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信長の命令で[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]が中国方面総司令官になると秀吉の与力となり、天正6年(1578年)に[[播磨国|播磨]][[平田城(播磨国)|平田城]]6,000石の知行を与えられた<ref>{{Citation |和書|last1=高柳|first1=光寿|last2=松平|first2=年一|editor=|year=1973|chapter|title =戦国人名辞典|publisher =吉川弘文館 }}</ref>。
天正7年からの秀吉による[[三木城]]攻めにも参加。三木城の糧道を断つために賀伏坂に付城して、息子の[[谷衛友|衛友]]と共に平田城(砦)を守備していたが、9月10日、生石中務少輔を大将とする毛利勢が攻撃し、平田村で討ち死にした。享年50。
家督は衛友が継ぎ、[[江戸時代]]に続く[[山家藩]]・谷家の祖となった。
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