「吉川弘文館」の版間の差分

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== 概要 ==
[[明治|明治時代]]に『[[古事類苑]]』『[[故実叢書]]』『[[本居宣長全集]]』『[[和漢三才図会]]』『[[賀茂真淵全集]]』『[[国書刊行会本]]』『[[大日本史]]』『[[国史大辞典 (明治時代)|国史大辞典(明治版)]]』等を出版、大正時代に『[[水戸藩史料]]』、昭和戦前期に『[[日本随筆大成]]』『[[新訂増補国史大系]]』等、多数の史料集・辞典類を刊行し日本史学の発展に寄与している。
 
戦後には、古代史から近現代史までの多数の研究書に加え、[[文化史]]、[[美術史]]、[[考古学]]、[[民俗学]]、[[宗教史]]、[[国語]]・[[国文学]]等の書籍を出版しており、日本史関連の大半の学者が著書・編著を刊行している。
 
一般読者を対象とした教養書として、[[伝記]]『[[人物叢書]]』、日本史研究の成果を分かりやすくまとめた『[[日本歴史叢書]]』、人類誕生から現代に至る歴史と文化を扱った一大シリーズ『[[歴史文化ライブラリー]]』、通史『日本の時代史』や教養書の名著の再刊版『[[歴史文化セレクション]]』等がある。なお[[世界史]]・美術関連書も少数だが、数十冊出されている。
 
ほかに日本史を知るための必携である『[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]』『日本民俗大辞典』『日本史総合年表』等の[[辞典]]・年表や、史料集『明治天皇紀』『皇室制度史料』『平城京木簡』『飛鳥藤原京木簡』等がある。また日本史学に多くの業績を残した、[[久米邦武]]、[[坂本太郎 (歴史学者)|坂本太郎]]、[[関晃]]、[[大久保利謙]]、[[西山松之助]]、[[桜井徳太郎]]、[[永原慶二]]、[[直木孝次郎]]、[[宮田登]]等の「著作集」を刊行している。なお月刊学術誌「[[日本歴史]]」と、月刊PR誌「本郷」を発刊している。
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== 歴史 ==
初代創業者吉川半七は[[天保]]10年([[1839年]])[[1月1日 近江国]](旧暦)|1月1日[[滋賀県]]に貧家の子として)で生まれ、米屋・菓子屋・小道具屋と奉公先を点々とし、[[江戸]][[日本橋蛎殻町]]の書肆若林屋喜兵衛の許落ち着いた奉公。安政4年([[1857年]])19歳で独立自営を許されて書物の仲買を始める。[[文久]]3年([[1863年]])には長姉の婚家で[[麹町]]の貸本屋近江屋嘉兵衛の二代目を継ぎ、近江屋吉川半七を名乗った。[[元治]]元年([[1864年]])江戸・京坂を往来して書籍の交易を行う
 
明治3年([[1870年]])11月、[[東京府]]京橋南伝馬町(現在の[[中央区 (東京都)|中央区]][[京橋 (東京都中央区)|京橋]]一丁目)の表通りに新店舗(吉川書房)を開く。扱った書物は、新時代の要望に応え、和漢書のほか、[[福沢諭吉]]・[[中央通り (東京都)|中央通り村正直]]沿い等の西洋文化の翻訳類も数多く取り揃え、とく移転し上方版の常備販売は他店の追随を許さぬものがあった。明治5年([[1872年]])には、吉川書房の階上に「貸本屋」の大革新を試み、有料(1時間半銭)館ともいえる物展覧所を設け、広く内外の書籍を集めて公開し「来読貸観所を併設す」と称した。[[大槻如電]]は「日本におけが、図書館の濫觴なり」と称賛している(明治9年([[1876年]])1111火災により閉鎖したする)。明治810年([[18751877年]])頃より出版業を兼業し、はじめ「文玉圃」「近江屋」等の号携わり用いたが多くは「吉川半七」の個人名をもって発行所とした。明治12年([[1879年]])には内閣書記官岡三橋(守節・書家)の推挙により[[宮内省]][[御用書肆]]となり、『萬葉集古義』『幼学綱要』『婦女鑑』等、多数の宮内省蔵版の出版命ぜられ引き受け、明治20年([[1887(1887]]には貸本業頃より、時代の趨勢止め鑑み出版に専た。明治35年([[1902年]])12月初代吉川半七が死去し、林縫之助が二代目を継いだ。縫之助は日本橋元四日市町のもっぱら学術肆泉屋半兵衛(林半三郎)次男で、近江屋刊行奉公、初代半七の次女ヨシの婿となった従事する
 
明治33年([[1900年]])弘文館の商号を使用建て大部な叢書の発行や、予約出版を行う。明治35年([[1902年]])吉川半七が63歳で死去。二代目吉川半七が明治37年([[1904年]])資本金10万円で[[合資会社]]吉川弘文館を設立する。明治38年([[1905年]])、国書刊行会の編輯所を吉川弘文館倉庫の二階に置き、この年から発行した刊行会本の印刷・配本を引き受け[[大正11年([[1922年]])までに全8期、57部、260冊を刊行。大正12年([[1923年]])[[関東大震災]]により店舗や資料を全て消失、合資会社も解散に追い込まれたする大正15年([[1926年]])8月、林縫之助が死去し、昭和34年([[19281929年]])日用書房を経営していた縫之助『新訂増補国史大系』甥林譲が事業刊行継承した開始する。昭和1718年([[19421943年]])2月には林譲も死去、昭和3年入社)太平洋戦争中吉川圭三が吉川半七の長女ウメの養子とな「出版事業令」により、四代目となった企業合同を行い一時事業を休止。この年までに国史大系58冊を刊行する
 
戦時中の休業を経て、昭和24年([[1949年]])[[5月7日]]株式会社吉川弘文館を設立し現在に至る。
 
戦時中の休業を経て、昭和24年([[1949年]])[[5月7日]]、吉川圭三ほか3人が出資し、新生「株式会社吉川弘文館を設立」として再発足現在に至る。
 
== 外部リンク ==