「モーリス・ルブラン」の版間の差分

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コナン・ドイルは[[シャーロック・ホームズシリーズ|ホームズシリーズ]]の成功に対してむしろ困惑し、犯罪小説で成功することを、より「尊敬に値する」文学的情熱から遠ざけるもので、生活を妨害されているようでさえあると感じていたともいわれている。同様にルブランも、もともと純文学・心理小説作家を志していた事もあり、[[犯罪#犯罪とフィクション|犯罪小説]]・[[探偵小説]]であるルパンシリーズで名声を博する事に忸怩たるものがあったといわれる。ドイルがホームズを[[ライヘンバッハの滝]]に落としたのと同様、ルブランも『[[813 (小説)|813]]』(1910年)でルパンを自殺させている。「ルパンが私の影なのではなく、私がルパンの影なのだ」という言葉などにも、その苦悩の跡が見られる。その後は歴史小説『国境』(1911年)、モーパッサンの影響のある短編集『ピンクの貝殻模様のドレス』(1911年)、空想的な作風の『棺桶島』(1919年)、[[サイエンス・フィクション|SF]]に分類される『三つの眼』(1919年、[[ファーストコンタクト]]・テーマ)、『ノー・マンズ・ランド』(1920年)などを発表。また1915年頃から映画公開と並行して発売される小説シネロマンという形態が生まれると、その執筆者に名を連ねた。
 
その後1920年『アルセーヌ・ルパンの帰還』でにルパンを復活させ、1927年には新しい探偵ジム・バーネットものを発表するが、このバーネットも実はルパンであることが後に明かされた。1930年代には文学界からも作家として高い評価を得るようになり、『ラ・レピュブリック』紙でフレデリック・ルフェーヴルから「今日の偉大な冒険作家のひとりである」「同時に純然たる小説家、正真正銘の作家である」と賞されている<ref>ジャック・ドゥルアール「モーリス・ルブラン 最後の小説」坂田雪子訳(『リュパン、最後の恋』東京創元社 2013年)</ref>。1930年代には恋愛小説『裸婦の絵』『青い芝生のスキャンダル』も執筆。小説の戯曲化にも意欲を注ぎ、1935年には『赤い数珠』を舞台化した『闇の中の男』が大成功を収めた。
 
晩年、「ルパンとの出会いは事故のようなものだった。しかし、それは幸運な事故だったのかも知れない」との言葉を残し、その自分の経歴も受け入れられるようになったとも見られ、『アルセーヌ・ルパンの数十億』(1939年)にいたるまで、ルパンシリーズを執筆する。