「牧野の戦い」の版間の差分

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|image=[[画像:China 1.jpg|300px|殷の領土(紫)]]
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|conflict= 殷周革命
|date=[[紀元前1027年]]又は[[紀元前1046年]](周武王11年)
|place=[[牧野区|牧野]]
|combatant1=[[殷]](商)
|combatant2=周
|commander1=[[帝辛|紂王(帝辛)]]
|commander2=[[武王 (周)|武王姫発]]<br/>[[周公旦|姫旦]]<br/>[[呂尚]]<br/>[[召公セキ|召公奭]]
|strength1=700,000(諸説あり)
|strength2=400,000(諸説あり)
|casualties2=不明
|}}
'''牧野の戦い'''(ぼくやのたたかい)は、古代[[中国]]の紀元前11世紀に、[[殷]]の[[帝辛|帝辛]](紂王)]]と[[周]]の[[武王 (周)|武王姫発]]を中心とした勢力が[[牧野区|牧野]]で争った戦い。周軍が勝利し約600年続いた殷王朝は倒れ([[克殷]])、周王朝が天下を治めることになった。
 
== 概 ==
[[周]]は代々、[[殷]]に服属していたが、殷と戦って殷王朝を破り、周王朝を開いた。史書によれば[[牧野区|牧野]](殷の首都、大邑[[商]]の近傍)において戦いが行われた。
 
== 史書の記すところ ==
=== 事前の経緯 ===
『[[史記]]』によれば殷末の紂王帝辛は凶悪な暴君として知られ、重税を課し、諫めるものを殺し、先祖を祀るのに[[生贄]]として多くの人間を殺したために民衆は殷の支配を嫌うようになった。また、殷末期には外征も行われ、諸侯は次第に殷を倒す密議をするようになった。
 
紂王帝辛はこれを知って怒り、ある日密議に加わった諸侯らを偽って招き、殺して塩漬けにした。周の君主である西伯の[[文王 (周)|西伯昌]]は篤実な性格でこの密議には加わっていなかったが、紂王帝辛に疑われて奴隷とされた。さらに紂王帝辛は殷の人質となっていた西伯昌の長男[[伯邑考]]を羹(あつもの、スープのこと)にして西伯昌に食べさせた。西伯昌の家臣たちが紂王帝辛に莫大な贈物をしたので西伯昌の疑いは晴れて解放されたが、西伯昌はこれを恨んで殷に復讐する決意を固めた。
 
西伯昌は周に戻ったのち、近隣の諸国を併呑して国力を増大させ、さらに殷に恨みをもつ諸侯たちの間に手を回して次第に殷に対抗できるだけの力を持つに至った。しかし、老齢の西伯昌は殷との対決を目前にして亡くなってしまう。
 
西伯昌の後を継いで次男発(の[[武王 (周)|発]]が周の太子として諸侯をまとめ、殷に決戦を挑むことになった。
 
発の率いる軍は殷の虚をついて決起し、諸侯の軍もこれに加わって瞬く間に大軍となった。殷軍は為す術もなく周軍侵攻を許たが、発は殷を容易に滅ぼすかに見えたが「いまだそのときではない」と言って突如として軍を返し、周へと帰国した。
 
この理由は不明とされているが、
数年後、発はまたしても軍を発して殷を攻めた。この際には様々な瑞兆があったといわれている。周軍は[[孟津県|孟津]]という港から[[黄河]]を渡ろうとしたが、雷雨と暴風に邪魔されて河を渡ることが出来なかった。発は怒り、[[河伯|黄河の神]]に向かって「[[天命]]は既に下ったのだ。どうしてわたしの邪魔をするのか」と大喝すると嵐はやみ、周軍は河を渡ることができた。また、河を渡る船の中に白魚が飛び込んできた。白は殷のシンボルカラーである。
 
周軍と殷軍は殷の首都・[[朝歌]]に近い[[牧野区|牧野]]という所で決戦することになった。『史記』周[[本紀]]によれば今回は殷の準備万全で70万という大軍を動員した。対する一方で周軍は諸侯の軍を加えても40万であった。決戦の前はまたしても雷雨がとまらなかったが、発は殷の[[湯王天乙]] (湯) が[[夏 (三代)|夏]]の[[桀|桀王]]を破って王朝をひらいた{{仮リンク|鳴条の戦い|zh|鸣条之战}}においても雷雨がとまらなかったといわれていることから、むしろこれは周が勝って王朝をひらくという前触れであると言って全軍を勇気づけた。
 
殷軍は数の上では遥かに優勢であったが、その数は戦場にて不吉を祓うための[[神官]]を含んでいるうえに、殷に服属している小諸国の軍や、奴隷兵から成り立っていた。彼らも暴虐な紂王帝辛の支配に嫌気がさしていたので、戦いの途中で矛先を変えて襲い掛かり、殷軍は壊滅した。
 
=== 事後 ===
周軍は紂王帝辛を追って[[朝歌]]まで攻め入った。紂王り、帝辛もはやこれまでと覚悟を決め、王宮に火を放って死んだ。発は紂王帝辛の遺体に三本の矢を放ってから[[まさかり|鉞]]で首を落としたという。『[[尚書]]』牧誓によれば、この日の[[干支]]は[[甲子]]であると記され、出土した[[青銅器]]銘文でも確認されている。ここに600年に及んだ殷王朝は倒れ、発は周王朝をひらて[[武王 (周) |武王]]として即位した。
 
牧野の戦いは文献によれば大規模な大軍同士の戦闘とされるが、青銅器銘文や[[甲骨文]]においては「大邑商に克つ」と記されたものがあり、戦闘は殷の邑を先制して周が襲撃したものであるとも考えられている。