「コネチカット植民地」の版間の差分

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龍伯 (会話 | 投稿記録)
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ギルフォードのウィリアム・リートはコネチカットに併合される前のニューヘイブン植民地知事を務め、ジョン・ウィンスロップ・ジュニアが1675年に死んだ後はコネチカット知事も務めた。両方の植民地知事を務めた唯一人の者だった。
 
ミルフォードのロバート・トリートは、コネチカットが[[エドマンド・アンドロス]]卿によるニューイングランド自治領に併合される前後で知事を務めた。その父、リチャード・トリートはこの植民地の初めに特許をうけた者の一人だった。
 
この植民地では18世紀に一連の強力な知事が現れ、それらの者は死ぬまで毎年再選された。フィッツ・ジョン・ウィンスロップが死んだときは、ウィンスロップのニューロンドンにおける牧師、ガードン・ソルトンストールが知事に選ばれた。ソルトンストールはコネチカットで知事に選ばれた唯一の牧師であり、ピューリタンの牧師は公職に就けないという一般にあった誤解を覆した。ソルトンストールが死んだとき、副知事であるハートフォードのジョセフ・タルコットが知事になった。タルコットが死んだときも、副知事だったミルフォードのジョナサン・ローが知事職を継いだ。ジョナサン・ローが死んだときは、ウィンザーのロバート・ウォルコット副知事が知事になった。ウォルコットは[[アメリカ独立宣言]]の署名者[[オリヴァー・ウォルコット (独立宣言署名者)|オリバー・ウォルコット]]の父であり、1754年のスペイン船事件におけるその役割の故に選挙で落選した。ウォルコットの後継者、[[ノーウォーク (コネチカット州)|ノーウォーク]]のトマス・フィッチは[[七年戦争]]の間植民地を指導したが、フィッチも1766年の[[印紙法]]拒否で強く出なかったために落選した。フィッチを破って当選したハートフォードのウィリアム・ピトキンは[[自由の息子達]]の支持者でもあり、また元知事ロジャー・ウォルコットの従兄弟でもあった。ピトキンは1769年に死に、レバノン出身の商人[[ジョナサン・トランブル (コネチカット植民地総督)|ジョナサン・トランブル]]副知事が後を継いだ。トランブルもまた自由の息子達の支持者であり、独立戦争の間も知事に選ばれ続け、[[1784年]]に引退した。この年はアメリカ合衆国のイギリスからの独立を認めた[[パリ条約 (1783年)|パリ条約]]調印から1年後だった。