「徳川頼房」の版間の差分

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=== エピソード ===
*水戸藩では、初代藩主[[徳川頼重|頼重]]の時代から城下の那珂川で捕れる[[初鮭]]を将軍家と朝廷に献上するのが慣わしとなっていた。頼房が藩主のとき、[[武家奉公人|中間]]の茂兵衛が献上鮭を京都に運ぶ途中、[[岡部宿]]で十数人の旗本たちにからまれ道を塞がれた。茂兵衛は「公用であるから」と道を譲ってくれるよう頼んだが、旗本たちが刀を抜いて脅すにいたり、やむなく素手で立ち向かい数人を叩き伏せたあと槍で刺され壮烈な死を遂げた。頼房は茂兵衛の忠勇に感じ入り、茂兵衛の遺体を手厚く葬るとともに記念碑を建ててその忠勇慰めた。讃え、以後、水戸藩の公用に限り[[武家奉公人|中間]]は、公用に限って脇差を帯びることを許されるようになっ可した。
*死の直前、世子光圀を通し、家来の[[殉死]]を止めさせるよう遺言した。4代将軍[[徳川家綱|家綱]]は頼房の死後、殉死禁止令を出した。
*徳川宗家の現当主[[徳川恒孝]]は、頼房の男系子孫にあたる。