「特攻兵器」の版間の差分

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特攻兵器の開発は1944年2月の[[マーシャル諸島|マーシャル]]の陥落、[[トラック島空襲]]をきっかけとして<ref>戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 327頁</ref>、[[黒木博司]]大尉らから中央へ要望されていた[[人間魚雷]]の試作命令(1944年2月26日)から始まる<ref>戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 326頁</ref>。脱出装置を予定して開発が始まったが、結局実現はしなかった。
 
1944年4月4日[[黒島亀人]]軍令部二部長が「作戦上急速実現を要望する兵力」を提出する。体当たり戦闘機、装甲爆破艇([[震洋]])、大威力魚雷([[回天]])の特攻兵器を含んだ提案であった。軍令部はそれを検討した後、[[震洋]]、[[回天]]、[[海_(潜水艇)|海龍]]の水中特攻兵器の緊急実験を海軍省側に要望した。[[艦政本部]]は仮名称を付して担当主務部を定め特殊緊急実験を開始する<ref>戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p326-327</ref>。
 
1944年6月25日元帥会議で[[伏見宮博恭王]]より「陸海軍とも、なにか特殊な兵器を考え、これを用いて戦争をしなければならない。戦局がこのように困難となった以上、航空機、軍艦、小舟艇とも特殊なものを考案し迅速に使用するを要する」と発言がある。陸軍の[[参謀本部]]総長[[東條英機]]、海軍の[[軍令部]]総長[[嶋田繁太郎]]はすでに考案中であると答えた。会議後、軍令部総長兼海軍省大臣の[[嶋田繁太郎]]は、海軍省に奇襲兵器促進班を設け、実行委員長を定めるように指示する。1944年7月1日[[大森仙太郎]]が海軍特攻部長に発令される(正式就任は9月13日)<ref>戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p34-39</ref>。