「エウリュディケ2世」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Takatsuki (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
1行目:
'''エウリュディケ'''([[ギリシア語|希]]:Eυρυδικη、[[ラテン文字]]転記:Eurydice、? - [[紀元前317年]])は、[[マケドニア王]][[アミュンタス4世]]と[[キュナネ]] ([[w:Cynane|en]]) ([[ピリッポス2世]]とその最初の妻の[[アウダタ]] ([[w:Audata|en]]) との娘)との娘で、ピリッポス2世の息子[[ピリッポス3世]]の王妃である。
 
エウリュディケは元々アデアという名前であったが、いつなのかは分からないがエウリュディケに変えられた<ref>フォティオス, cod. 92</ref>。彼女は軍事の素養のあった母キュナネによって育てられて彼女から[[戦術]]を学んで雄雄しい女性に育ち、後に[[オリュンピアス]]と争った時には鎧を着て戦ったという<ref>アテナイオス, XIII. 560f</ref><ref>ポリュアイノス, VIII. 60</ref>。
 
[[紀元前323年]]に[[アレクサンドロス3世]](大王)んだ後、次の王を誰に決めるかが問題となった時、エウリュディケはキュナネに同行して[[アジア]]に渡った。この時キュナネは、[[バビロン会議]]の結果、[[摂政]]として実権を握った有力貴族[[ペルディッカス]]の弟[[アルケタス (オロンテスの子)|アルケタス]]によって殺された。この事件に軍が憤慨したため、それを宥めるために(おそらくペルディッカスのはからいでその埋め合わせとして)それをなだめるためにエウリュディケは王に即位した大王の異母兄ピリッポス3世と結婚することになった<ref>フォティオス, cod. 92</ref>。このピリッポス3世は精神に障害を持っていたため、そこに女性であるエウリュディケの政治での主体的活動の場が与えられることになった。
 
[[紀元前321年]]にペルディッカスが諸将の攻撃を受けて殺されると、[[トリパラディソス]]で新体制を定めるための会議が開かれた([[トリパラディソスの軍会]])。ここでエウリュディケは[[ペイトン]]と[[アリダイオス]]の新摂政就任に対し、自らの許可なしに何事も決めさせるべきではないと唱えた。これを受けて実力不足だった二人の摂政は辞任して代わりにピリッポス2世の頃から仕えてきた重臣[[アンティパトロス]]が次の候補にあがってきた。エウリュディケは[[アスクレピオドロス]]によって代筆されたというアンティパトロス弾劾演説を軍の集会で行って兵士たちが騒然としたため、アンティパトロスは命からがらその場を逃げた。しかし、その後将軍たちと貴族階級であった[[騎兵]]たちの支持を受けたアンティパトロスは騒動を収めて摂政に就任したため、エウリュディケの権力奪取の試みは失敗に終わった<ref>ディオドロス, XVIII. 39</ref><ref>フォティオス, cod. 92</ref>。
 
その後エウリュディケは夫と共にマケドニアに戻った。[[紀元前319年]]にアンティパトロスが死ぬとエウリュディケは再び行動を開始した。アンティパトロスに後継者に指名された[[ポリュペルコン]]及び大王の母[[オリュンピアス]]と、アンティパトロスの息子で我こそは父の後を継ぐべしと考えていた[[カッサンドロス]]との間で対立が起きると、エウリュディケはカッサンドロスと手を結んだ。エウリュディケはポリュペルコンに軍をカッサンドロスに引き渡すよう命じる手紙を書き、そして紀元前317年にオリュンピアスと一戦交えようと挙兵した。しかし、[[エピロス]]にいたオリュンピアスが大王の遺児[[アレクサンドロス4世]]を奉じて帰国してくると将兵たちはエウリュディケを見捨てて戦わずしてオリュンピアスの側につき、エウリュディケは夫と共に[[アンフィポリス]]への途上で捕らえられた<ref>ディオドロス, XIX. 11</ref><ref>ユスティヌス, XIV. 4</ref>。
 
エウリュディケはオリュンピアスによって夫と共に狭い牢獄に軟禁された。そしてオリュンピアスはエウリュディケに剣、縄、数個の[[ドクニンジン]]を送って死を命じた。この仕打ちに対してエウリュディケはオリュンピアスが自らに似た運命を辿らんことを祈った後、既に殺されていた夫の体の傷を拭き、「運命を嘆くこともなく不運の重さに卑屈になることもなく」<ref>ディオドロス, XIX. 11</ref>、縄で首を吊って命を絶った<ref>ユスティヌス, XIV. 4</ref><ref>アイリアノス, XIII. 36</ref>。<br />
その後、エウリュディケとピリッポス3世、そしてキュナネのためにカッサンドロスが葬儀を挙げ、彼らは[[アイガイ]]の王墓に葬られた<ref>ディオドロス, XIX. 52</ref>。
 
== 註 ==