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[[周防国]][[吉敷郡]]佐山に、長州藩士の子弟として生まれる。萩の[[明倫館]]に学ぶ。[[文久]]2年([[1862年]])、[[先鋒隊]]に入隊 。[[文久]]3年([[1863年]])の[[朝陽丸事件]]での幕府使節団暗殺の首魁とされる。[[元治]]元年([[1864年]])、[[御楯隊]]に入隊。[[禁門の変]]では、戦死した[[来島又兵衛]]の指揮権を引き継いで[[遊撃隊 (長州藩)|遊撃隊]]の指揮を執り、のちに遊撃隊総督となる。[[慶応]]元年([[1865年]])、[[高杉晋作]]による[[功山寺挙兵]]では、遊撃隊を率いて参加した。[[長州征討|第二次長州征伐]]では芸州口を攻撃するなど活躍した。
 
慶応3年([[1867年]])、[[トーマス・ブレーク・グラバー]]の協力の下[[イギリス]]に渡り、[[明治]]4年([[1871年]])まで滞在する。帰国後は工部少輔、ついで侍従長に就任するも、明治6年([[1873年]])には[[イタリア]]、[[オーストリア]]に赴任。在任中に[[ヴィンチェンツォ・ラグーザ]]を[[工部美術学校]]彫刻科の講師として日本へ招く事に成功している。明治16年([[1883年]])、司法大輔。明治17年([[1884年]])より明治26年([[1893年]])まで再び公使としてイギリス在住。明治27年([[1894年]])に[[枢密顧問官]]となり、死去まで務めた。
 
== 栄典 ==
* [[1915年]](大正4年)[[11月10日]] - [[記念章|大礼記念章]]<ref>『官報』第1310号・付録、「辞令」1916年12月13日。</ref>
 
{{在イギリス日本大使|18671884年-18711893年|全権公使}}
{{Template:在イタリア日本大使|1873年-1878年|全権公使}}
{{Template:在オーストリア日本大使|1873年-1875年|全権公使}}