「和田堰」の版間の差分

編集の要約なし
 
[[File:Azusa tosyuko.JPG|thumb|right|300px|和田堰の水を取水している梓川頭首工。ここで取水された水は各方面にわけられるが、[[昭和電工]][[赤松発電所]]で発電の用に供された水が、さらに和田堰に流れるように今は造られている]]
'''和田堰'''(わだせぎ)は、[[長野県]][[松本市]]を流れる灌漑用の[[用水路]]。[[梓川]]から取水している。
'''和田堰'''(わだせぎ)は、[[長野県]][[松本市]][[波田町|波田]]を通り、[[新村]]から[[神林]]方面まで流れる灌漑用の人工河川で、[[梓川]]から取水している。水流量は多く、[[長野県道25号塩尻鍋割穂高線]]([[サラダ街道]])と交差する辺りで川幅10メートルを超す。この[[用水路]]の灌漑水は、波田下の段から、[[和田]]、新村、神林、[[島立]]、島内に至る約2700haの水田を潤している。成立は古く、10世紀初頭(平安中期)を示唆する意見もある<ref name=azusa>あずさ書店編集部『幻の大寺院 若沢寺を読みとく』あずさ書店、2010年9月、ISBN9784900354678、43ページ</ref>。
 
'''和田堰'''(わだせぎ)は、[[長野県]][[松本市]][[波田町|波田]]を通り、[[新村]]から[[神林]]方面まで流れる灌漑用の人工河川で、[[梓川]]から取水している。水流量は多く、[[長野県道25号塩尻鍋割穂高線]]([[サラダ街|長野県25号]]と交差する辺りで川幅10メートルを超す。この[[用水路]]の灌漑水は、同市の[[波田町|波田]]下の段から、[[和田 (松本市)|和田]]、[[新村 (松本市)|新村]][[神林 (松本市)|神林]]、[[島立 (松本市)|島立]]、島内に至る約2700haの水田を潤している。成立は古く、10世紀初頭(平安中期)を示唆する意見郷土史家の説もある<ref name=azusa>あずさ書店編集部『幻の大寺院 若沢寺を読みとく』あずさ書店、2010年9月、ISBN9784900354678、43ページ</ref>。
 
==概要==
[[アルピコ交通]][[アルピコ交通上高地線|上高地線]]とは、分岐した水路の2本が[[三溝駅]]東方約200mで直交している(川幅は狭い)。この辺りでは、周囲の土地よりも堤防の方が2mほど高い人工の天井川になっている。造られた平安時代における測量技術・土木技術の高さを示すものである。
 
同じ波田地区内には、他に[[波田堰]]・[[黒川堰]]の2つがある。長野県道25号塩尻鍋割穂高線(サラダ街道)と交差する辺りでは、和田堰は最下段の[[河岸段丘]]の下で梓川と同じ高さにある。しかし、波田堰は下から3つめの河岸段丘を掘り通す高さに造られている。黒川堰は、山の中を通り、上波田寺山において山麓に出て、さらに山麓を掘り通すように造られている。
 
==歴史==
『[[和名抄]]』([[937年]])では、[[筑摩郡]]にある6つの[[郷]]の1つとして大井郷がある。大井郷は、波田赤松の牧ノ内に人工の堰堤を設け、大井口水門から下流に大井堰(和田堰の別称)を流し、この灌漑水によって開かれた郷であると言われる<ref name=azusa/>。この考え方では、937年以前に和田堰(大井堰)が完成し、その効果として大井郷ができていたことになる。和田堰は、流路も長く、周囲の土地よりも堤防が高い場所さえ見られる(成立当時もそうだったか、未確認。その部分は支流なのか、未確認)。したがって、高度な測量技術・土木技術が必要だったはずで、上の論者は、朝鮮渡来の[[秦氏]]([[京都]]の[[嵐山]][[渡月橋]]にある大堰堤も秦氏が造ったものと言う)の関与を指摘している。また[[914年]]([[延喜]]14年)には、秦岑範(はたみねのり)が信濃[[国司]]([[|少目]]しょうさかん)を、[[1044年]](寛徳元年)には秦今武が信濃[[国司|掾]](じょう)を務めていることが確認でき、秦氏は実際にこの地に関与していたと言う。
 
== 脚注 ==
4,037

回編集