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|略名 = 前秦
|日本語国名 = 前秦
|公式国名 = 秦→大秦<ref name="民族大移動151">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P151</ref>
|公式国名 = 秦
|建国時期 = [[350351年]][[1月]]<ref name="民族大移動151"/>
|亡国時期 = [[394年]][[10月]]<ref name="民族大移動151"/>
|先代1 = 氐
|先旗1 = blank.png
|先代2 = 東晋
|先旗2 = blank.png
|先代3 = 羌
|先旗3 = blank.png
|先代4 = 前燕
|先旗4 = blank.png
|先代5 = 前涼
|先旗5 = blank.png
|先代6 = 代 (五胡十六国)
|先旗6 = blank.png
|次代1 = 後涼
|次旗1 = blank.png
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|次旗6 = blank.png
|位置画像 = Map of Sixteen Kingdoms 5.png
|位置画像説明 = 前秦と東晋
|公用語 = 漢語([[中国語]])、{{仮リンク|鮮卑語|zh|鲜卑语}}
|首都 = [[長安]]→[[晋陽]]→[[南安]]→[[胡空堡]]→[[湟中]]<ref name="民族大移動184">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P184</ref>
|首都 = [[長安]]
|元首等肩書 = 天王・大単于→[[皇帝]]→大秦天王→皇帝<ref name="民族大移動175">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P175</ref>
|元首等肩書 = [[皇帝]]
|元首等年代始1 = [[350351]][[1月]]
|元首等年代終1 = [[355年]][[6月]]
|元首等氏名1 = [[苻健]]
|元首等年代始2 = [[357355]]6月
|元首等年代終2 = [[385357年]]6月
|元首等氏名2 = [[苻]]
|元首等年代始3 = [[394357]]6月
|元首等年代終3 = [[394385]][[8月]]
|元首等氏名3 = [[苻]]
|元首等年代始4 = 385年8月
|元首等年代終4 = [[386年]][[10月]]
|元首等氏名4 = [[苻丕]]
|元首等年代始5 = 386年[[11月]]
|元首等年代終5 = [[394年]][[7月]]
|元首等氏名5 = [[苻登]]
|元首等年代始6 = 394年7月
|元首等年代終6 = 394年10月
|元首等氏名6 = [[苻崇]]
|変遷1 = 建国
|変遷年月日1 = [[350351]][[1月]]
|変遷2 = [[西秦]]によって滅亡
|変遷年月日2 = [[394年]]10月
}}
'''前秦'''(ぜんしん、[[拼音]]:Qiánqín, [[351年]] - [[394年]])は、[[中国]]の[[五胡十六国時代]]に[[テイ (民族)|&#x6c10;]]族によって建てられた国。国号は単に'''秦'''だが、この秦を滅ぼして起こった[[西秦]]と[[後秦]]があるために'''前秦'''と呼んで区別する。
 
一時は華北を平定し中華統一を目指したが、南下して[[東晋]]に大敗。敗戦後に華北で諸国の自立と離反が相次ぎ滅亡した。
==歴史==
&#x6c10;族の族長[[苻洪]]は初め[[前趙]]の[[劉淵]]らに従っていたが、前趙が[[後趙]]に滅ぼされ、後趙が[[冉閔]]の反乱により滅ぶと自立、後を継いだ[[苻健]]は一時[[東晋]]に服属した。その後東晋から独立し[[皇帝]]を名乗り、[[長安]]を手に入れる。東晋の将軍[[桓温]]の北伐を受けるがこれを撃退し、[[陝西省|陝西]]一帯に勢力を張るようになった。
 
== 歴史 ==
苻洪の孫で苻健の甥にあたる3代皇帝[[苻堅]]は明敏で博学多才な人物であり、従兄の2代皇帝[[苻生]]を倒して即位すると、漢人宰相の[[王猛]]を登用して内政の充実を図り、[[前燕]]・[[前涼]]・[[代 (五胡十六国)|代]]といった国々を次々と滅ぼして華北を統一した。
=== 建国と苻健・苻生の時代 ===
[[五胡]]の1つである氐族は現在の中国の[[甘粛省]]や[[陝西省]]に存在した民族で、五胡十六国時代には長安の西の[[武都]]や[[略陽]]を中心に、楊氏・呂氏・苻氏らの豪族を中心として台頭した<ref name="中華の崩壊87">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P87</ref>。
 
氐の族長[[苻洪]]は初め[[前趙]]の[[劉淵]]らに従っていたが、前趙が[[後趙]]に滅ぼされると後趙に従った。しかし後趙の[[石虎]]の死後に[[冉閔]]の反乱が起きると[[石遵]]の配下から離れて自立した<ref name="中華の崩壊87"/>。苻洪は長安の復帰を目論むが、350年3月に石虎の旧臣[[麻秋]]に毒殺された<ref name="民族大移動89">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P89</ref>。
[[383年]]に苻堅は南北統一を目指し、周りの反対を押し切り、総勢112万と号する東晋討伐の軍を起こした。だが、前秦軍は[[漢民族|漢族]]将軍でかつての東晋の梁州刺史[[朱序]]が「堅、敗れたり!」と叫んで苻堅を裏切り、東晋軍に動揺した隙を突かれて大敗、苻堅は弟の[[苻融]]と共に[[鮮卑]]族の[[慕容垂]]の軍勢によって守られて敗走した([[ヒ水の戦い|&#x6ddd;水の戦い]])。前秦の力が一気に弱まったのを機に、国内の諸部族により[[後涼]]・[[西秦]]・[[後秦]]・[[北魏]]・[[西燕]]・[[後燕]]などの国々が独立した。
 
その跡を継いだ3男の[[苻健]]は一時[[東晋]]に服属したが、当時長安で東晋の[[雍州]][[刺史]]を自称して割拠していた[[杜洪]]を破って西進し、[[351年]][[1月]]に東晋から独立して天王・大単于を称して[[皇始]]と建元し、[[長安]]を首都と定めて前秦を建国した<ref name="中華の崩壊87"/><ref name="民族大移動90">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P90</ref>。苻健は[[352年]][[1月]]に皇帝に即位したが、当時の前秦はまだ小国であった<ref name="民族大移動90"/>。[[354年]][[2月]]、東晋の征西大将軍[[桓温]]の[[北伐]]を受けて苦戦するが6月に撃退し、これを機に[[陝西省|陝西]]一帯に勢力を張るようになった<ref name="民族大移動90"/>。以後、前秦は後趙滅亡後の華北を[[鮮卑]]慕容部の建国した[[前燕]]と東西を二分する勢力へと成長した<ref name="中華の崩壊87"/>。
[[385年]]、長安から逃れた苻堅は[[羌]]族の族長で後秦の[[姚萇]]に殺害され、庶長子の長楽公[[苻丕]]は[[太原市|晋陽]]で帝位を継いだが、翌[[386年]]、西燕に大敗して壊滅した。同年、一族の[[苻登]]が[[枹罕]]で即位し、一時的に攻勢に転じたが、[[394年]]、後秦に滅ぼされた。同年、苻登の子であった[[苻崇]]は[[湟中]]に逃れて帝位を継いだが、鮮卑乞伏部の西秦の[[乞伏乾帰]]に討たれ、前秦は完全に滅んだ。
 
[[355年]][[6月]]の苻健の死により、第2代皇帝となった3男の[[苻生]]は[[356年]][[2月]]に[[前涼]]を服属させ、[[357年]][[5月]]には[[羌]]族の族長[[姚襄]]・[[姚萇]]兄弟と戦い、姚襄を殺害して姚萇を服属させるなど勢力を拡大した<ref name="民族大移動90"/>。しかし苻生は残忍・残虐な行為が多かったので民心は離反し、苻健の甥で自らの従兄弟である[[苻堅]]のクーデターにより[[357年]][[6月]]に排除され、苻堅が第3代皇帝として即位した<ref name="中華の崩壊87"/><ref name="民族大移動90"/>。
==前秦の皇帝==
*[[苻洪]]は高祖によって太祖武恵帝と追号された。
*[[350年]]、[[苻洪]]は三秦王を自称した。
*[[350年]]、[[苻健]]は三秦王を自称したが、同年に[[東晋]]に降り、王号を称することを止めた。
 
=== 華北の統一と全盛期 ===
#高祖景明帝([[苻健]]、在位:[[352年]] - [[355年]])
第3代皇帝として即位した苻堅は大秦天王と称した<ref name="民族大移動91">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P91</ref>。苻堅は明敏で博学多才な人物であり、漢人宰相の[[王猛]]を重用して内政の充実を図り、初代からの方針である重商主義から重農主義に転換して豪商を抑え、長安や関中の感慨施設の復興や[[匈奴]]・[[鮮卑]]等の移民を展開して農業基盤を整備した<ref name="民族大移動91"/>。一方で官僚機構の整備、法制の制定に努めて中央集権化を図った<ref name="民族大移動91"/>。[[360年]]代半ばまで前秦は内政の充実や周辺諸国の外圧、さらに匈奴や羌の反乱や皇族間の内紛が相次いで勢力拡大は進まなかったが、[[368年]]までにこれらを全て片付けると対外政策に進んで外征を行ない、[[370年]][[11月]]に[[前燕]]を<ref name="河出中国95">山本『中国の歴史』、P95</ref>、[[371年]][[4月]]に前[[仇池]]を滅ぼして遼東・中原を獲得した<ref name="民族大移動92">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P92</ref>。[[376年]][[8月]]には[[前涼]]を滅ぼして[[涼州]]を平定し、さらに12月には[[代 (五胡十六国)|代]]を滅ぼした<ref name="河出中国95"/><ref name="民族大移動92"/>。これにより前秦は五胡十六国時代で唯一となる華北統一を達成した<ref name="中華の崩壊88">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P88</ref><ref name="民族大移動92"/>。
#廃帝厲王([[苻生]]、在位:[[355年]] - [[357年]])
 
#世祖宣昭帝([[苻堅]]、在位:[[357年]] - [[385年]])
この前秦の勢威に[[高句麗]]・[[新羅]]など[[朝鮮半島]]の諸王朝は朝貢して服属し、華北の社会は安定し、人口は2300万人に達して前秦は全盛期を迎えた<ref name="民族大移動92"/>。
#哀平帝([[苻丕]]、在位:[[385年]] - [[386年]])
 
#高帝([[苻登]]、在位:[[386年]] - [[394年]])
=== 南下の失敗と事実上の滅亡 ===
#末帝([[苻崇]]、在位:[[394年]])
華北統一に大きく貢献した王猛は[[375年]]に死去した<ref name="民族大移動93">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P93</ref>。王猛は生前から苻堅に対して東晋遠征を反対していたが、天下統一を目指す苻堅はこれを聞き入れずに[[378年]][[2月]]に庶長子[[苻丕]]に命じて東晋領の[[襄陽]]を攻撃させて[[379年]]2月に落とさせたが、この時は東晋の[[謝玄]]の反撃を受けて[[建康]]攻撃には失敗した<ref name="民族大移動94">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P94</ref>。
 
[[383年]]8月、苻堅は南北統一を目指して群臣の反対を押し切り、総勢100万(90万とも)と号する東晋討伐の軍を起こした<ref name="河出中国95"/><ref name="中華の崩壊92">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P92</ref><ref name="民族大移動95">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P95</ref>。前秦軍は苻融の軍が[[寿春]]を落とすなど優勢だったが、[[漢民族|漢族]]将軍でかつての東晋の梁州刺史[[朱序]]が「堅、敗れたり!」と叫んで苻堅を裏切り、さらに東晋軍の謝玄・[[謝石]]らに動揺した隙を突かれて大敗した<ref name="民族大移動95"/>。苻堅は流れ矢に当たって負傷しながらも弟の[[苻融]]と共に[[鮮卑]]族の[[慕容垂]]の軍勢によって守られて敗走したが、苻融は戦死した([[ヒ水の戦い|&#x6ddd;水の戦い]])<ref name="民族大移動95"/>。
 
苻堅は12月に長安に帰還したが、この敗戦による前秦の支配力の動揺は激しかった<ref name="民族大移動97">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P97</ref>。かつての前燕皇族であった[[慕容泓]]と[[慕容沖]]は[[華陰]](現在の陝西省[[華陰市]])で関中の鮮卑を糾合して長安に迫った<ref name="民族大移動97"/>。苻堅は慕容沖を破り、[[西燕]]を建国した慕容泓は6月に家臣に暗殺されるなどしてひとまずは沈静化した<ref name="民族大移動102">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P102</ref>。だが384年4月には慕容泓に敗北して罪に問われる事を恐れた姚萇が馬牧(現在の陝西省[[興平市]])に逃亡して自立し、[[後秦]]を建国した<ref name="民族大移動114">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P114</ref>。またそれより少し前の1月には慕容垂が現在の[[河南省]]で自立して[[後燕]]を建国するなどした<ref name="民族大移動104">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P104</ref>。苻堅はこれらの勢力を鎮定するために各地に軍を派遣したが前秦軍は各地で敗北し、またこの混乱で長安の経済は破壊されて深刻な食糧不足に陥った<ref name="民族大移動97"/>。
 
[[385年]][[5月]]、苻堅は慕容沖の西燕の勢力拡大を恐れて長安を脱出し、[[五将山]](現在の陝西省[[岐山県]][[西北方]])に逃れたが、7月に[[羌]]族の族長で後秦の[[姚萇]]に捕縛されて新平に連行されて禅譲を迫られた<ref name="民族大移動97"/>。しかし苻堅は拒絶したため、8月に姚萇により殺害された<ref name="民族大移動98">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P98</ref>。この時をもって前秦は事実上滅亡した。
 
=== 残党の抵抗と完全な滅亡 ===
苻堅の死後、その庶長子で慕容垂の後燕と戦っていた長楽公[[苻丕]]は、後燕に敗れて長安に逃れる途上で父帝の死去を知り、[[太原市|晋陽]]で帝位を継いだ<ref name="民族大移動98"/>。しかし苻堅の死去により前秦の将軍で西域の平定を任されていた[[呂光]]が[[後涼]]を<ref name="民族大移動129">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P129</ref>、[[乞伏国仁]]が[[西秦]]を<ref name="民族大移動118">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P118</ref>、代の皇族の生き残りである[[道武帝|拓跋珪]]が[[北魏]]を建国するなど<ref name="民族大移動147">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P147</ref>、分裂がさらに進んで前秦の領域は河東方面に限定されるまでになった<ref name="民族大移動98"/>。そして苻丕も王猛の遺児[[王永]]の助力を得て一時は勢力を拡大するが、後燕と西燕に挟まれて苦戦を強いられ、[[386年]][[10月]]に西燕の[[慕容永]]に敗れて[[東垣]](現在の河南省[[新安県]])にて東晋軍の攻撃を受けて殺された<ref name="民族大移動98"/>。
 
現在の[[甘粛省]]東部にいた一族の[[苻登]]は386年[[11月]]に[[枹罕]]で第5代皇帝に即位し、[[後秦]]と戦い一時的に攻勢に転じたが、[[394年]][[7月]]に後秦の[[姚興]]に滅ぼされて殺された<ref name="民族大移動99">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P99</ref>。同年、苻登の子であった[[苻崇]]は[[湟中]]に逃れて第6代の帝位を継いだが、10月に鮮卑乞伏部の西秦の[[乞伏乾帰]]に討たれ、前秦はこれをもって滅んだとされている<ref name="民族大移動99"/>。
 
== 社会 ==
=== 政治 ===
苻堅にはもともと漢学の素養があったため、王猛を重用して漢族伝統の治政方針を採用した<ref name="中華の崩壊88"/>。中国古代において政治を遂行したとされる明堂を建設したり、漢族王朝において最も重要な祭祀とされる都の南で行なう儀礼を断行し、皇帝が行なう農耕儀礼である籍田の親耕を行ない、その后に養蚕の礼を行なわせるなど、中国における伝統的国家儀礼を相次いで導入した<ref name="中華の崩壊90">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P90</ref>。前燕を滅ぼして中原の覇者になると苻堅の儒教的理念を用いた国家建設と風俗の整斉はさらに熱を帯びるようになり、[[魏 (三国)|曹魏]]や[[西晋]]時代における士族階級の戸籍を復活した上で彼らを前秦王朝に向けて人心収攬する事に勤めた<ref name="中華の崩壊90"/>。
 
=== 統治機関 ===
苻堅は当時混乱していた華北統一のため、諸民族融合政策を採用した。すなわち自らが征服した[[鮮卑]]や羌などを都の周辺に移住せしめて重用し、自らの族である氐を中央から新たに支配領域となった地域へと移住させた<ref name="中華の崩壊90"/>。この政策は前秦の根幹を成す氐の集団としての紐帯を弱体化させ、結果的に前秦王朝解体へとつながる事になった<ref name="中華の崩壊91">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P91</ref>。王猛や[[苻融]]はその事を認識して苻堅を諌めたが聞き入れられなかった<ref name="民族大移動100">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P100</ref><ref name="中華の崩壊91"/>。
 
ただ、当時の五胡政権に共通して言える事であるが、彼らの王権は一君万民的な構造によって成立していたわけではなく、王族や部族長によって率いられた諸集団の連合政権として成立していた<ref name="中華の崩壊93">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P93</ref>。前秦の場合は氐を中核として匈奴や鮮卑を支配し、さらに漢族を支配するという連合国家として成立しており、王権を強化しようとしてもその成長を阻害する要因が数多く存在していたのである<ref name="中華の崩壊93"/>。ましてや苻堅の場合は現状維持ではなく積極的な勢力拡大に出たため、当然新たな支配地からの人材や税収、軍事力に資源の獲得は王権の強化のためには必要不可欠であり、そのためにあえて民族融合策を採用していたといえる<ref name="中華の崩壊93"/>。とはいえ前秦が滅ぼした旧国の皇族に要職や一軍を与えたため、前秦の中枢部にすら疑問を感じる者が多かったという<ref name="民族大移動100"/>。
 
== 前秦の皇帝 ==
* [[苻洪]]は高祖によって太祖武恵帝と追号された。
* [[350年]]、苻洪は三秦王を自称した。
* 350年、[[苻健]]は三秦王を自称したが、同年に[[東晋]]に降り、王号を称することを止めた。
* [[351年]][[1月]]、苻健は天王・大単于を号した<ref name="民族大移動90"/>。
* [[352年]]1月、苻健は皇帝を称した<ref name="民族大移動90"/>。以後、苻堅が大秦天王と号したのを除いて<ref name="民族大移動91"/>、歴代君主は皇帝を称した。
 
# 高祖景明帝(苻健、在位:[[352年]] - [[355年]])
# 廃帝厲王([[苻生]]、在位:355年 - [[357年]])
# 世祖宣昭帝([[苻堅]]、在位:357年 - [[385年]])
# 哀平帝([[苻丕]]、在位:385年 - [[386年]])
# 高帝([[苻登]]、在位:386年 - [[394年]])
# 末帝([[苻崇]]、在位:394年)
 
== 元号 ==
# [[皇始 (前秦)|皇始]]([[351年]] - [[355年]])
# [[寿光]]([[355年]] - [[357年]])
# [[永興 (前秦)|永興]]([[357(357]] - [[359年]])
# [[甘露 (前秦)|甘露]]([[359(359]] - [[364年]])
# [[建元 (前秦)|建元]]([[365年]] - [[385年]])
# [[太安 (前秦)|太安]]([[385(385]] - [[386年]])
# [[太初 (前秦)|太初]]([[386(386]] - [[394年]])
# [[延初]]([[394(394]]
* [[元光 (前秦)|元光]] ([[393年]] - [[394年]]
 
==参考資料 脚注 ==
=== 注釈 ===
*『[[魏書]]』(列伝第八十三 臨渭氐苻健)
<references group="注釈"/>
*『[[晋書]]』(戴記第十二 苻洪・苻健・苻生、戴記第十三 苻堅上、戴記第十四 苻堅下、戴記第十五 苻丕・苻登)
=== 引用元 ===
<references/>
 
== 参考資料 ==
* 『[[魏書]]』(列伝第八十三 臨渭氐苻健)
* 『[[晋書]]』(戴記第十二 苻洪・苻健・苻生、戴記第十三 苻堅上、戴記第十四 苻堅下、戴記第十五 苻丕・苻登)
* [[川本芳昭]]『中国の歴史05、中華の崩壊と拡大。魏晋南北朝』([[講談社]]、[[2005年]][[2月]])
* [[三崎良章]]『五胡十六国、中国史上の民族大移動』([[東方書店]]、[[2002年]]2月)
* [[山本英史]]『中国の歴史』([[河出書房]]新社、[[2010年]][[10月]])
 
== 関連項目 ==
* [[後秦]]
* [[西秦]]
* [[テイ (民族)]] (氐)
* [[東晋]]
 
{{DEFAULTSORT:せんしん}}
[[Category:五胡十六国の王朝]]
 
[[ca:Dinastia dels Jin anteriors]]
[[de:Frühere Qin]]
[[en:Former Qin]]
[[fr:Qin antérieur]]
[[hr:Raniji Qin]]
[[ko:전진 (오호 십육국)]]
[[no:Tidligere Qin]]
[[pl:Wcześniejsze Qin]]
[[ru:Ранняя Цинь]]
[[sh:Raniji Qin]]
[[vi:Tiền Tần]]
[[zh:前秦]]