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'''ピエール・ピエルロ'''('''Pierre Pierlot''', [[1921年]]<ref>[http://artist.cdjournal.com/a/-/151333]</ref>[[4月26日]] - [[2007年]][[1月9日]])<ref>[http://www.resmusica.com/2007/01/12/deces-du-hautboiste-pierre-pierlot-paris-26-avril-1921-paris-9-janvier-2007/]</ref>は、[[フランス]]の[[オーボエ]]奏者。
==生涯==
[[パリ]]の生まれ。ヴァラシエンヌ音楽院でガストン・ロンガットに師事した後、パリ音楽院でルイ・ブルーゼ(Louis Bleuzet)の薫陶を受け、1941年にプルミエ・プリを得ている。また、[[フェルナン・ウーブラドゥ]]から[[室内楽]]も学んだ。
 
== 生涯 ==
[[ヴィシー政権]]下の大戦中は、[[近衛秀麿]]主宰の「コンセール・コノエ」に[[ジャック・ランスロ]]等と共に参加。
[[パリ]]の生まれ。ヴァラシエンヌ音楽院でガストン・ロンガットに師事した後、[[パリ音楽院]]でルイ・ブルーゼ (Louis Bleuzet) の薫陶を受け、1941年にプルミエ・プリを得ている。また、[[フェルナン・ウーブラドゥ]]から[[室内楽]]も学んだ。
 
[[ヴィシー政権]]下の大戦中は、[[近衛秀麿]]主宰の「コンセール・コノエ」に[[ジャック・ランスロ]]等と共に参加した。

1946年から[[ジャン=ピエール・ランパル]]、ジャック・ランスロ、ポール・オンニュ、ジルベール・クルシエと木管[[木管五重奏]]団を結成して演奏活動を開始し、翌年にはパリの[[オペラ=コミック座]]に首席オーボエ奏者として加わった。
 
1949年には[[ジュネーヴ国際音楽コンクール]]のオーボエ部門で優勝を飾り、1951年からは[[ロベール・ヴェイロン=ラクロワ]]らとパリ・バロック・アンサンブルを結成して[[バロック音楽]]の紹介に努めた。一方で、[[ジャック・イベール]]、[[フランシス・プーランク]]や[[ダリウス・ミヨー]]らの作品を手掛けている。
 
1969年から1986年まで[[パリ国立高等音楽・舞踊学校|パリ音楽院]]で教鞭をとった。この間、主にパリ・バロック・アンサンブルの一員として頻繁に来日、[[読売日本交響楽団]]([[若杉弘]]指揮)と[[オーボエ協奏曲 (モーツァルト)|モーツァルトの協奏曲]]も演奏した601960年代から平成期の901990年代まで日本で数多くの演奏会に出演した。
 
パリにて没。
 
== 脚注 ==
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