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北海王[[元詳]]([[献文帝]]の子)の子として生まれた。幼くして北海王の封を継いだ。龍驤将軍・通直散騎常侍に任じられた。宗正卿・光禄大夫に転じた。成長すると、宗正卿・散騎常侍・平東将軍を兼ねた。都官尚書に転じ、安南将軍を加えられた。散騎常侍・撫軍将軍・[[徐州]][[刺史]]として出向した。まもなく御史の弾劾を受けて官爵を奪われた。
 
その後、[[宿勤明達]]・叱干騏驎らが[[ヒン州|豳州]]・[[華州]]で乱を起こすと、元顥は北海王の位を回復し、撫軍将軍のまま、使持節・仮征西将軍・都督華豳東秦諸軍事の位を加えられ、左僕射・西道行台を兼ねて、宿勤明達を討った。反乱軍を連破して、豳州・華州の包囲を解かせた。功績により正式に征西将軍に進んだ。また持節・行台・都督の位はもとのまま、尚書右僕射に任じられた。まもなく車騎大将軍・儀同三司に転じた。[[蕭宝寅|蕭宝夤]]らが平涼で大敗すると、元顥もまた洛陽に逃げ帰った。
 
ときに[[葛栄]]が南進して、[[ギョウ|鄴]]城にせまった。[[528年]]、元顥は[[侍中]]・驃騎大将軍・[[開府儀同三司]]・[[相州]]刺史となって、葛栄をはばんだ。元顥が[[汲郡]]に到着したとき、[[爾朱栄]]が洛陽に入って、[[孝荘帝]]を擁立すると、元顥は侍中・相州刺史のまま、[[太傅]]に任じられた。元顥は葛栄と爾朱栄を噛みあわせて、自身の安全を図ろうと画策した。元顥の舅の范遵が[[殷州]]刺史となったが、范遵は葛栄の進出のため赴任できなかった。元顥は范遵を鄴にとどめ、范遵を行相州事とすることで、自分の計画のために動かそうとした。相州行台の甄密先が鄴を守っていたが、元顥の企みを知って、范遵を排して前刺史の李神に相州を任せた。その後に軍を派遣して元顥の順逆いずれにも即応できるよう態勢を整えた。