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== 生涯 ==
燕王時代の[[永楽帝]]の嫡長子として生まれ、父の即位後に[[皇太子]]となる。幼少より病弱であり、また成人すると極端な肥満体型となり、自ら歩くことも困難だったと伝えられる。また、弟である漢王[[朱高煦]]も自らが父の後継者になることを望んでいた。永楽帝は病弱なことを理由に朱高熾の廃太子も検討したが、朱高熾の息子である朱瞻基(後の[[宣徳帝]])が英明であったことにより、廃立は実施されなかった。永楽帝は在位中にたびたび親征を行ったため、京城を留守にすることが多く、朱高熾は[[監国]]として永楽帝の代理を務めた。しかし、皇太子に仕える近臣が漢王の一派によって讒言され、後に名臣「三楊」の一人として知られる[[楊士奇]]なども投獄された。
 
[[永楽 (明)|永楽]]22年([[1424年]])、永楽帝の崩御にともない朱高熾が皇帝に即位する。洪熙帝は、まず永楽帝に諫言して投獄された元[[戸部尚書]][[夏原吉]]らを釈放し、次に[[靖難の変]]の際に[[建文帝]]の臣下であり、永楽帝即位後に奴隷や官妓とされた家族たちを赦免し、没収されていた彼らの財産を返還した。また、恣意的な法律の適用を防止するために[[宮刑]]を禁止している。
 
永楽帝の度重なる外征によって国庫が圧迫される状況を、監国として批判的な立場で見ていた洪熙帝は、即位後は一切の外征を行わず、また[[北京市|北京]]を都城としていることが北方民族の動向に影響を受けやすいと考え、[[南京市|南京]]都を計画している([[朱元璋|洪武帝]]による建国期への回帰思想もあったとされる)。しかし、この遷都(還都)計画は洪熙帝の崩御により実現しなかった。
 
洪熙帝の治世はわずか1年であるが、その治世は恤民を主眼にした仁政であったと記録されている。永楽年間も監国として長期間にわたって内政実務を担当し、過度な膨張政策と恐怖政治を緩和し、民力の休養と国富の増大に努めた。『[[明史]]』には、洪熙帝が長寿であったならばその治世は[[文景の治]]([[前漢]]の[[文帝 (漢)|文帝]]・[[景帝 (漢)|景帝]]の時代、国全体が平和で安定していた時代とされる)同様のものになっただろうと記述されている。後世の史家は、この仁宗洪熙帝と宣宗宣徳帝の治世を[[仁宣の治]]と総称し、明の最盛期であったと評価している。
 
== 宗室 ==