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[[日本史]]に通じ、父羅山とともに『[[日本王代一覧]]』、『[[本朝通鑑]]』(『本朝編年録』)、『[[寛永諸家系図伝]]』など、幕府の初期における編纂事業を主導し、[[近世]]の[[歴史学]]に大きな影響を与えた。鵞峰が整えた林家学塾の組織は、その後の[[昌平坂学問所]]の基礎となった。
 
多方面な関心をいだいてエンサイクロペディスト博学広才ぶりを発揮した父羅山にくらべ、鵞峯は、『本朝通鑑』や『日本王代一覧』などにおいて「日本」の国柄がどのようなものであったかを追究し、幕府政治の正統性や妥当性がどうあればいいかについて、その支配[[イデオロギー]]形成の端緒を開いたとも評される<ref> [http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1090.html 松岡正剛の千夜千冊『徳川イデオロギー』ヘルマン・オームス]</ref>。
 
[[寛永]]20年([[1643年]])の著書『日本国事跡考』のなかで「[[松島]]、此島之外有小島若干、殆如盆池月波之景、境致之佳、與丹後[[天橋立]]、安藝[[厳島|嚴島]]爲三處奇觀」(松島、この島の外に小島若干あり、ほとんど盆池月波の景の如し、境致の佳なる、丹後天橋立・安芸厳島と三処の奇観となす)と記し、これが現在の「[[日本三景]]」の由来となった。[[2006年]](平成16年)、林鵞峰の誕生日にちなみ、7月21日が「日本三景の日」と制定された。