「長州征討」の版間の差分

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7月23日、朝廷は幕府へ対して長州追討の勅命を発した。幕府は[[毛利敬親]]と[[毛利定広|定広]]の親子(以下、藩主親子と記す)に[[禁門の変]]を起こした責任を問い伏罪をさせるため、尾張越前および西国諸藩より征長軍を編成した。動員された藩の数は最終的に35藩、総勢15万人とされる。8月13日、諸藩の攻め口が定められ五道(芸州口、石州口、大島口、小倉口、萩口)より城のある[[萩]]ではなく、藩主親子のいる[[山口市|山口]]へ向かうと決定した。
 
征長総督は[[尾張藩]]の前々藩主である[[徳川慶勝]](8月7日、[[徳川茂承]]よりへ変更)。副総督は[[越前藩]]の藩主である[[松平茂昭]]が任命された。総督は征長について将軍より全権委任をうけ征長軍に対する軍事指揮権を掌握する。10月22日、大坂城にて征長軍は軍議をひらき、11月11日までに各自は攻め口に着陣し、11月18日に攻撃を開始すると決定した。広島の[[国泰寺]]には総督府、前の[[小倉城]]には副総督府を置くことになった。将軍が最終的に長州藩へ処罰(公裁)をするが、総督は長州藩への降伏条件の決定、征長軍の解兵時期について権限をもつ。幕府は朝敵となった長州の藩邸を没収、藩主親子に謹慎を命じた。しかし、どのような条件で長州藩へ謝罪をさせるかについては決めず、幕府や征長軍内においては厳罰的な案を含めていくつかの案が出された。
 
このとき征長軍に参加して萩口の先鋒を任されていた[[薩摩藩]]は独自の動きを見せた。福岡藩士の喜多岡勇平、薩摩藩士の高崎兵部([[高崎五六]])は9月30日に岩国新湊に入った。[[岩国藩]]の[[吉川経幹]](吉川監物)と薩摩藩は征長における交渉に入った。10月21日、高崎兵部は岩国へ宛てて、薩摩藩は長州藩のために尽力するが暴徒を処罰し、黒白を明らかとして、悔悟の念を明らかとするのが肝要である。また[[三条実美]]ら五卿(以下、五卿と記す)の追放、時と場合によっては藩主親子が総督府の軍門に自ら出てくる必要があるが、まずは安心してよいという内容の手紙を送った。手紙には高崎は京都で留守番をするが[[西郷吉之助]]が征長軍で交渉を担当するため、遠からず岩国に入るかもしれないと書かれている。