「黎元洪」の版間の差分

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== 生涯 ==
=== 清朝の軍人として ===
黎元洪の父は[[太平天国の乱]]鎮圧に当たった清朝の軍人であり、彼自身も軍人への道を志す。[[1889年]]、[[天津市|天津]]の北洋水師学堂を卒業した黎元洪はそのまま海軍に進み、広東艦隊の巡洋艦「[[広甲 (巡洋艦)|広甲]]」に機関士として乗船する。この広甲は1892年に[[北洋艦隊]]に編入され、[[1894年]]の[[日清戦争]]にも参加した。同年9月の[[黄海海戦 (日清戦争)|黄海海戦]]で乗艦の広甲が撃沈され敵前逃亡後に座礁す、泳げなかった黎元洪は命綱を頼りに漂流していたところを友軍に救助され、九死に一生を得ている。
 
[[1895年]]春、黎元洪は[[両江総督]][[張之洞]]が新たに洋式海軍を組織しようとしているのを聞きつけ、南京の張之洞に面会を申し込む。張之洞の知己を得た彼は海軍ではなく新たな陸軍の創設に携わる。この時期日本に留学して軍人としての専門教育を受け、帰国後はドイツ人教官と共に新軍の訓練教官を務めた。[[1904年]]に張之洞が[[湖広総督]]に再任されると、黎元洪も随伴して武漢に赴任する。ここで改めて'''湖北新軍'''が組織され、[[1906年]]に黎元洪は湖北新軍の第21混成旅団長となる。[[1907年]]に張之洞が[[軍機大臣]]となって中央に戻ってから後も、彼は湖北新軍の将校として、武漢の治安維持(主に革命派の弾圧)に務めた。