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'''四条 頼基'''(しじょう よりもと、[[寛喜]]元年([[1229年]]) - [[永仁]]4年[[3月15日 (旧暦)|3月15日]]([[1296年]][[4月25日]]))は、[[鎌倉時代]]の[[武士]]。[[日蓮]]の有力[[布施|檀越]]である。[[官位]]は、[[左衛門尉]]であったので左衛門尉の[[唐名]]である金吾と称され'''四条 金吾'''とも言われる。法名は日頼。父は四条頼員。
 
[[承久の乱]]後、父の代から[[北条氏]]の一族の[[北条朝時|江間朝時]]・[[北条光時|江間光時]]に[[執事]]として仕え、江間氏が[[信濃国]]伊賀良荘の地頭となると代官として赴任した。
 
[[建長]]5年([[1253年]])から日蓮の説法に深く帰依し、[[文永]]8年([[1271年]])の龍口法難では日蓮に殉死しようとした。日蓮の『[[開目抄]]』は[[佐渡島]]から鎌倉の頼基の元へ送られ、門下に広く示された。