「寒戸の婆」の版間の差分

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{{Indent|松崎村のノボトの茂助という家の娘が、梨の木の下に草履を残して消息を絶った。何年か経った嵐の日に娘が帰ってきたが、その姿は[[山姥]]のように奇怪な老婆に成り果てていた。老婆はその夜は村に一泊したのみだが、それから毎年やって来て、そのたびに暴風雨が起きた。村人たちは困り果て、老婆が来ないように巫女や山伏に頼み、村境を封じる石塔を建てたことで、老婆は来なくなったという<ref>{{Cite book|和書|author=[[佐々木喜善]]|title=世界教養全集|year=1961|publisher=[[平凡社]]|volume=21|pages=330-331頁|chapter=東奥異聞}}</ref>。}}
 
[[登戸]](のぼと)」という地名は松崎村に実在することから、こちらの佐々木の話が原話であり、「寒戸」は「登戸」の誤記、または柳田の聞き間違いとの指摘があるが<ref name="kikuchi">{{Cite book|和書|author=菊池照雄|title=山深き遠野の里の物語せよ|year=1989|publisher=梟社|isbn=978-4-7877-6300-6|pages=12-17頁}}</ref><ref name="murakami">{{Cite book|和書|author=[[村上健司]]|title=日本妖怪散歩|year=2008|publisher=[[角川書店]]|series=[[角川文庫]]|isbn=978-4-04-391001-4|pages=14-15頁}}</ref>、「のぼと」と「さむと」の聞き間違えや、「寒」を「登」と誤植する可能性は低く、さらに佐々木の話では老婆がその後も何度も村を訪れたなどの差異が認められることから、柳田が意図的に話を改変したものと見る向きもある<ref name="miura" />。また、登戸のある旧家では、[[明治]]初期に茂助という当主の娘が消息を絶ち、数十年後に山姥のような姿に成り果てて村に現れたと伝えられており、これが伝説のモデルともいわれる<ref name="kikuchi" />。
 
この伝説は現地では「モンスケ婆」などと呼ばれて恐れられ、強風の日にはモンスケ婆が村に姿を現すといわれたり、上閉伊郡土淵村(現・遠野市)では泣き喚く子供を「モンスケ婆様来るぞ」と言って叱りつけたりもしていた。しかし『遠野物語』が有名になり、『遠野物語』の多くの語り手が「寒戸の婆」を語ることで、「登戸の婆」が「寒戸の婆」の名で、遠野の伝承として定着する結果となっている<ref name="miura" />。