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はじめ[[織田信長]]に従い、のちに[[徳川家康]]に仕えたが、[[天正]]13年([[1585年]])に些細なことから争いを起こして国を追われ、[[摂津国]][[西成郡]]佃に蟄居。この際に名を「佃十成」と改めた。
 
その後[[加藤嘉明]]から請われて家臣となり、[[九州征伐]]、[[小田原征伐]]、[[文禄・慶長の役]]に従軍し功を立て、[[家老]]に取り立てられる。[[関ヶ原の戦い]]の際には、本戦に出陣した主君・嘉明の留守居として領地の[[伊予国|伊予]][[松前城 (伊予国)|松前城]]に残り、[[毛利氏]]らの支援を受けて蜂起した[[河野氏]]の旧臣らの軍勢を策をもって撃退した([[三津刈屋口の戦い浜夜襲]])した。この戦功によって戦後、伊予国[[浮穴郡]]久万山に6000石の所領を与えられた。[[松山城 (伊予国)|松山城]]の築城では縄張りを担当し、加藤家の重臣として北郭に壮麗な屋敷を構えていたという。
 
寛永11年(1634年)、死去。墓所は[[愛媛県]][[松山市]]高砂の不論院。
 
== 関連項目 ==
* [[三津刈屋口の戦い浜夜襲]]
 
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