「マリー・アントワネット」の版間の差分

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[[ファイル:Alexander_Kucharski,_La_Reine_Marie-Antoinette_(années_1790).jpg|200px|thumb|1791年の肖像画]]
しかし、これはマリー・アントワネット自身の言葉ではないことが判明している<ref>[[#堀ノ内 & 千明 1992|堀ノ内 & 千明 1992]] {{要ページ番号|date=2015年4月}}89頁および135頁<!--この本では「マリー・アントアネット」と表記されている。--></ref>。[[ジャン=ジャック・ルソー|ルソー]]の『{{仮リンク|告白 (ルソー)|label=告白|fr|Les Confessions (Rousseau)}}<ref>{{cite wikisource|Les Confessions (Rousseau)|Jean-Jacques Rousseau|zh|nobullet=yes}}</ref>』([[1766年]]頃執筆)の第6巻に、ワインを飲むためにパンを探したが見つけられないルソーが、“家臣からの「農民にはパンがありません」との発言に対して「それならブリオッシュを食べればよい」とさる大公夫人が答えた”ことを思い出したとあり、この記事が有力な原典のひとつであるといわれている。庇護者で愛人でもあったヴァラン夫人とルソーが気まずくなり、マブリ家に家庭教師として出向いていた時代([[1740年]]頃)のことという。
 
{{仮リンク|アルフォンス・カー|fr|Alphonse Karr}}は、[[1843年]]に出版した『悪女たち』の中で、執筆の際にはこの発言は既にマリー・アントワネットのものとして流布していたが、1760年出版のある本に「[[トスカーナ大公国]]の公爵夫人」のものとして紹介されている、と書かれている。実際はこれは彼女を妬んだ他の貴族達の作り話で、彼女自身は飢饉の際に子供の宮廷費を削って寄付したり、他の貴族達から寄付金を集めるなど、国民を大事に思うとても心優しい人物であったとされる。トスカーナは1760年当時、マリー・アントワネットの父であるフランツ1世([[フランツ・シュテファン]]。[[神聖ローマ帝国]][[皇帝]])が所有しており、その後もハプスブルク家に受け継がれたことから、こじつけの理由の一端になった、ともされる。