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lk、関連項目加筆。
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戦闘の方式は時代や国により決まっていることもあるが、近世以降は両者が協議して決定する。戦う2名のほか証人(決闘責任者)1名の計3人で決闘は成立するが、2名のみで証人が立てられなかった例もある。通常、戦闘を行う2名は、それぞれ1名の介添人(セコンド)をつける。このため、決闘は通常、5名で行われることになる。ただし、通常はこのほか大勢の見物人が決闘を見守る。
 
中世までは介添人は武器を持っていた。このため、決闘が白熱すると介添人も含む4名の[[乱闘]]となり、多数の死者が出ることもあった。近世以降、介添人は立会人となり、武器の携帯は禁じられるようになった。
 
記録に残る最初期の決闘は、[[棍棒]]と[[盾]]で行うものと決まっていたが、時代により、また場所により、武器や武装はさまざまである。中世は剣で行われ、近世以降は[[拳銃]]でも行われた。武器が選べる時代は、通常、最初に侮辱を受けた側が武器を選ぶ権利を持つ。武器は同一のものが2つ用意されるのが普通である。
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封建時代の日本において、主に[[武士]]階級が行った決闘はヨーロッパの作法と幾分異なる部分がある。正式な決闘の場合は、日時と場所を記した「果たし状」を送るが、突発的な理由の場合は、武士は常に刀を携帯している関係上、刀を抜くことが挑戦であり、それに応じて相手が刀を抜けば決闘の受諾となり、そのまま決闘が始まることになる。
 
[[江戸時代]]の決闘は領主の警察権の対象であり、果し合いは領域を統治する大名勢力から見れば自領内で起こった乱闘・殺人事件であり刑事罰の対象とされた。有名な[[巌流島]]の決闘の場合では、豊前と長門の間の「ひく嶋」を果し合いの場所に選んでおり、これは大名側(細川・毛利)の統治範囲の曖昧な無人島であったからと推測されている<ref>「異説「巌流島」」[[吉村豊雄]](文学部教授、[[熊本大学]]附属図書館報 2002.10)[http://www.lib.kumamoto-u.ac.jp/sites/default/files/no34.pdf]</ref>。決闘の結末は理非をもって裁断され[[喧嘩両成敗]]とはならないのが通常であったが、しばしば[[敵討]]騒動の原因となった。
 
==歴史==
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==参考文献==
*{{Cite journal |和書 |title=重罪私訴追のアンジュー改革(1) |author=[[マーガレット・H・カー]] |author2=[[沢田裕治]](訳) |journal=[[山形大学]]紀要・社会科学 |volume=40 |issue=2 |date=2010-02-15 |url=http://www.lib.yamagata-u.ac.jp/kiyou/kiyous/kiyous-40-2/image/kiyous-40-2-029to047.pdf |naid=110007572374 |ref=Kerr}}※イギリスにおける決闘裁判について。
 
==関連項目==
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*[[高田馬場の決闘]]
*[[敵討]]
*[[一騎討ち]]
*[[喧嘩]]
 
{{DEFAULTSORT:けつとう}}