「水戸藩」の版間の差分

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* [[陸奥国|陸奥]][[守山藩]] - [[松平頼元|松平刑部大輔頼元]]を祖とする。[[1661年]](寛文元年)に2万石を与えられ、常陸[[額田藩|額田]]に[[陣屋]]を置いたのに始まる。[[1700年]](元禄13年)に2代[[松平頼貞|大学頭頼貞]]が陸奥守山転封となり、以降明治維新まで続く。代々の当主は、連枝大名として[[伺候席#大広間|大広間]]に詰めた。また、江戸定府として参勤交代は行わなかった。極官は従四位下侍従であり、代々の当主は嫡子のうちに従四位下に任官し、家督相続後に侍従に昇進している。
* 常陸[[常陸府中藩|府中藩]] - [[松平頼隆|松平播磨守頼隆]]を祖とする。1661年(寛文元年)に2万石を与えられ、常陸保内に陣屋を置いたのに始まる。1700年(元禄13年)に同国府中に陣屋を移す。守山藩と同様、大広間詰め連枝大名、江戸定府であった。官位の格も守山家と同じである。
* 常陸[[常陸宍戸藩|宍戸藩]] - [[松平頼雄 (宍戸藩主)|松平大炊頭頼雄]]を祖とする。[[1682年]]([[天和 (日本)|天和]]2年)に1万石を与えられ、常陸宍戸に陣屋を置いたのに始まる。連枝大名であるが、[[1711年]]([[正徳 (日本)|正徳]]元年)に2代[[松平頼道|筑後守頼道]]が[[譜代大名|譜代]]に列せられ[[伺候席#帝鑑間|帝鑑間詰]]となってより、幕府からは譜代大名として遇せられる。官位は従五位下。
 
== 家老 ==
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* [[太田氏]](2000石) ※[[里見氏]]旧臣。初代頼房の准母[[英勝院]]の一門
*:[[太田正重]]-資正-資真-一学=資富=資胤-資厚=資敬=資原-資春-資信
* [[鈴木氏#雑賀党鈴木氏|鈴木(雑賀)氏]](3000石→600石) 称:雑賀姓
*:[[鈴木重朝]]-[[鈴木重次|重次]]=[[鈴木重義 (雑賀鈴木家)|重義]]([[徳川頼房|頼房]]の十一男)=雑賀重春-雑賀重護-重教-重堅-重明-重孚
* [[宇都宮氏]](1000石)[[下野宇都宮氏]]の子孫。墓所は先祖と同じ下野国益子にある。
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== 備考 ==
* [[佐竹氏|佐竹家]]は[[久保田藩|秋田]]へ[[転封]]されるにあたって[[水戸]][[美女]]を根こそぎ連れていったと俗説されるが{{要出典|date=2012年2月|title=学術的に信頼できる典拠は?}}、これは秋田の都道府県別日照時間が日本で最も低い<ref>[http://www.stat.go.jp/data/nenkan/zuhyou/y0110000.xls 気象庁。2014年3月閲覧。]</ref>ため色白の者が溢れているように見えたことから、[[左遷]][[合理化]]で流された無根拠の謬説と捉えるのが妥当である<ref>[[遺伝学]]的に、美女の遺伝子([[X染色体]])を女児しか受け継がないなどということは考えられないため。美女の母を持つ水戸の男性が美女の遺伝子(X染色体)を後世に伝えたはずなので「美女を根こそぎ連れて行った」ことは[[生物学]]上ありえず、明らかに事実ではない。また十分に多い水戸の総人口及び転封時の構成人数から考えても、佐竹家臣団が水戸の美女を取りこぼしなく募って全員移民させるのは常識的に不可能でもある。</ref>。
 
== 脚注 ==