「藤原実明」の版間の差分

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[[応保]]3年([[1163年]])[[従五位|従五位下]]に[[叙爵]]。[[永万]]2年([[1166年]])に[[侍従]]に任ぜられ、[[仁安 (日本)|仁安]]3年([[1168年]])従五位上に叙せられた。[[嘉応]]2年([[1170年]])[[土佐国#国司|土佐介]]を兼任。
 
[[承安]]3年([[1173年]])[[正五位|正五位下]]に叙せられる。[[治承]]3年([[1179年]])[[近衛府|右近衛少将]]ににんぜられ、治承4年([[1180年]])[[周防国#国司|周防介]]を兼ねた。[[養和]]元年11月([[1182年]]1月)[[従四位|従四位下]]に進み、[[寿永]]元年([[1182年]])には従四位上に叙せられる。寿永2年([[1183年]])[[昇殿]]を聴される。また、[[後白河天皇|後白河法皇]]より閏10月6日、[[紀伊国]][[日高郡 (和歌山県)|日高郡]]の荘園・[[高家荘]]の[[預 (官職)|預職]]に補されている<ref>『後白河院庁下文写』[[寿永]]3年閏10月6日。</ref>。寿永3年([[1184年]])[[正四位|正四位下]]・[[美濃国#国司|美濃守]]に叙任された。
 
[[元暦]]2年([[1185年]])正月、[[藤原季範]]の[[木工寮|木工頭]]任官の替わりに[[備前国#国司|備前守]]に任じ、6月には[[源雅賢]]の解官により[[播磨国#国司|播磨守]]に任ぜられた。[[文治]]2年12月([[1187年]]1月)右近衛中将に転じて、[[建久]]2年([[1191年]])[[蔵人頭]]に補任。建久4年12月([[1194年]]1月)[[参議]]に任ぜられて[[公卿]]に列した。建久5年([[1194年]])[[備後国#国司|備後権守]]を兼任。建久6年([[1195年]])には兄の[[藤原実宗|実宗]]の譲りで[[従三位]]に叙せられた。