「長徳の変」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
4行目:
長徳2年(996年)頃、道隆の遺児である[[藤原伊周]]が通っていた故[[太政大臣]][[藤原為光]]の娘三の君と同じ屋敷に住む四の君(かつて寵愛した女御[[藤原し子|藤原忯子]]の妹)に[[花山天皇|花山法皇]]が通いだしたところ、それを伊周は自分の相手の三の君に通っているのだと誤解し、弟の[[藤原隆家|隆家]]に相談する。隆家は長徳2年[[1月16日 (旧暦)|1月16日]]([[996年]][[2月7日]])、従者の武士を連れて法皇の一行を襲い、法皇の衣の袖を弓で射抜く(更に『[[百錬抄]]』では、花山法皇の従者の童子二人を殺して首を持ち去ったという話も伝わっている)。
 
花山法皇は出家の身での女通いが露見する体裁の悪さと恐怖のあまり口をつぐんで閉じこもっていたが、この事件の噂が広がり隆家は4月に[[出雲国|出雲権守]]に左遷された。またその際、伊周は勅命によるもの以外は禁止されている呪術である[[大元帥法]]をひそかに行ったとして、[[大宰権帥]]に左遷された。どちらも実質的な配流である。また姉弟であった[[一条天皇]][[中宮]][[藤原定子|定子]]の落飾という事態をも招いた。
 
== 出典 ==
*[[繁田信一]]「殴りあう貴族たち」([[柏書房]]、2005年)
 
{{デフォルトソート:ちようとくのへん}}