「聚楽第」の版間の差分

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また松林寺(智恵光院通出水下ル)付近一帯の窪地は周辺より3mほど低くなっており、古くから{{要出典|date=2015年7月|title=「古くから」とはいつからか。そのことが書かれている文献は?}}聚楽第の堀跡とされてきた<!-- 注11に記載されて近年の「堀跡ではなるこを重複して記の説から必要れば天保14年充分古い。それ以前に堀跡ではする資料があるのならば文献名と共に示せ --><!-- ←それなら「天保14年に名倉希言が外堀と主張して前か来」とオモテに書いたどうか。除却後200年以上後天保14年を「充分古い」とは言えない。「堀跡だ」という主張があってこそ「堀跡でない」という主張がさるのであって、「堀跡だ」と誰も言ってない時期「堀跡で間違」という資料を示せというのは無茶要求。いずれにしろ「古くから」で問題なと書たかぎりはその時期と文献を示すのはwikiのルールから言って必須だし、「聚楽土採掘跡」という主張に対抗するためにも欲しい情報 -->
。1997年の試掘調査<ref>「平成9年度京都市内遺跡試掘調査概報」(京都市文化市民局)。「検出された地山と新出水通との比高差が3.3mであり‥きわめて浅い。堀の幅に対して不釣り合いな深さであり、南の墓地付近で急激に落ち込むものと考えたい」と記す(報告者:馬瀬智光)。なお、近世の陶磁器類と共に平安宮に関する瓦類も多数出土している。</ref>では外堀の一部であったと推定している<ref>天保14年に『豊公築所聚楽城址形勝』を著した名倉希言を始め、『京都坊目誌』(大正2年)・『京都府史蹟調査会報告』([[西田直二郎]]大正8年)も外濠跡としている。近年では森島康雄、馬瀬智光らも付近の埋文調査の結果などを根拠に同説を主張している。ただ聚楽土の採掘跡の可能性を指摘する声(加藤繁生ら)もある。</ref>。
 
京都市出水老人デイサービスセンターの北向かい(智恵光院通出水下ル)には[[加藤清正]]寄贈と伝えられている庭石が残る。