「聚楽第」の版間の差分
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また松林寺(智恵光院通出水下ル)付近一帯の窪地は周辺より3mほど低くなっており、古くから{{要出典|date=2015年7月|title=「古くから」とはいつからか。そのことが書かれている文献は?}}聚楽第の堀跡とされてきた<!--
。1997年の試掘調査<ref>「平成9年度京都市内遺跡試掘調査概報」(京都市文化市民局)。「検出された地山と新出水通との比高差が3.3mであり‥きわめて浅い。堀の幅に対して不釣り合いな深さであり、南の墓地付近で急激に落ち込むものと考えたい」と記す(報告者:馬瀬智光)。なお、近世の陶磁器類と共に平安宮に関する瓦類も多数出土している。</ref>では外堀の一部であったと推定している<ref>天保14年に『豊公築所聚楽城址形勝』を著した名倉希言を始め、『京都坊目誌』(大正2年)・『京都府史蹟調査会報告』([[西田直二郎]]大正8年)も外濠跡としている。近年では森島康雄、馬瀬智光らも付近の埋文調査の結果などを根拠に同説を主張している。ただ聚楽土の採掘跡の可能性を指摘する声(加藤繁生ら)もある。</ref>。
京都市出水老人デイサービスセンターの北向かい(智恵光院通出水下ル)には[[加藤清正]]寄贈と伝えられている庭石が残る。
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