「穂積氏」の版間の差分

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[[天武天皇|天武]]13年([[684年]])の[[八色の姓]]制定に伴い、穂積氏は52氏のひとつとして[[朝臣]]姓を賜り、[[穂積虫麻呂]]、[[穂積稲足]]、[[穂積濃美麻呂]]が朝臣姓に改姓した。また、[[持統天皇|持統]]5年([[691年]])に先祖の墓記を上進するよう命じられた18氏の中に穂積氏も含まれており、後に[[日本書紀]]の元となった。
 
[[文武天皇|文武]]4年([[700年]])、[[穂積濃美麻呂]]は師の[[役行者]]と共に、[[相模国]][[足柄下郡]](現・[[神奈川県]][[湯河原町]])を訪れ陰陽の秘法を以て子之神社を創祀したとされ、このとき、当地で見出した「霊妙なる薬湯」が現在の[[湯河原温泉]]であると伝わる<ref>[http://okuni-konomiya.sakura.ne.jp/annai/annai.html 『子之神社、古神道総齋主・天佑師公式ホームページ』神社案内]</ref>
 
[[奈良時代]]の[[官人]]・[[穂積老]]は、穂積咋の曾孫で、[[大宝]]3年([[703年]])に[[山陽道]][[巡察使]]を命じられ、[[和銅]]3年([[710年]])1月1日には左将軍[[大伴旅人]]のもと、副将軍として騎兵、[[隼人]]・[[蝦夷]]らを率いて行進した。[[養老]]2年([[718年]])、[[藤原武智麻呂]]が[[式部卿]]に就任した際、[[式部大輔]]となる。養老6年([[722年]])に不敬の罪で[[佐渡島]]に配流されるが、[[天平]]12年([[740年]])に恩赦で入京を許された。その後、天平16年([[744年]])の[[難波京]]へ[[遷都]]の際、[[恭仁京]]の[[留守官]]を任され、[[天平勝宝]]1年([[749年]])8月に死去。この時[[大蔵大輔]][[正五位上]]。
 
== 歴代 ==
鈴木氏に至る系図を掲載。
 
#[[ニギハヤヒ|饒速日命]]([[天津神]])
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