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若宮八幡宮社新宮建築の費用提供について加筆
泰盛は文永11年([[1274年]])の[[文永の役]]後に[[御恩奉行]]となり、将軍・惟康親王の安堵の実務を代行した。得宗家との親密な関係の一方、将軍・[[宗尊親王]]、[[惟康親王]]との関係も密接であり、将軍の親衛軍、側近の名簿には必ず泰盛の名が見える。第3代将軍・[[源実朝]]の未亡人[[坊門信子|西八条禅尼]]は、文永9年([[1272年]])に実朝の菩提寺照心院に宛てた置文に、寺の諸問題が起きた時には、実朝に志し深かった[[安達景盛]]の孫である泰盛を頼るように記しており、京都の貴族層と将軍の仲立ちを務めていた。
 
時宗は文永9年(1272年)2月の[[二月騒動]]で同族内の対抗勢力を排除して得宗独裁の強化を図り、安達家でも、泰盛の庶兄の[[安達頼景]]が所領2か所没収を命じられた。文永10年([[1273年]])に宿老政村が死去、実時もこの頃に引退・死去しており、文永年間以前まで見られた北条一門は[[寄合衆]]のメンバーから消え、[[得宗]]家被官である[[御内人]]が台頭してくる。[[建治]]年間の寄合衆メンバーは御内人の[[平頼綱]]、[[諏訪真性]]、文官の[[太田康有|三善康有]]などで御家人は泰盛のみであった。時宗政権を支えた二本柱は頼綱を筆頭とする得宗被官と、外戚で[[外様]]御家人の安達氏を代表する泰盛であったが、御内人と外様御家人という両者が時宗と結ぶ関係のあり方は対照的で、両者の対立は必然であった。[[建治]]3年([[1277年]])12月、時宗の嫡子・[[北条貞時|貞時]]の[[元服]]に際し、泰盛は[[烏帽子]]を持参する役を務めて<ref>『[[建治三年記]]』12月2日条。</ref>その後見となる。[[弘安]]4年([[1281年]])の[[弘安の役]]後、弘安5年([[1282年]])、52歳の泰盛は[[秋田城介]]を嫡子[[安達宗景|宗景]]に譲り、代わって[[陸奥守]]に任じられる。陸奥守は幕府初期の[[大江広元]]、[[足利義氏 (足利家3代目当主)|足利義氏]]を除いて北条氏のみが独占してきた官途であり、泰盛の地位上昇と共に安達一族が引付衆、評定衆に進出し、北条一門と肩を並べるほどの勢力となっていた。
 
[[建治]]元年([[1275年]])京都[[若宮八幡宮社]]の新宮建築に当たり、御家人に費用の捻出が求められるが、泰盛は北条氏一門(500貫~200貫)、足利氏(200貫)、大江[[長井氏]](180貫)に次いで多い、150貫の費用を提供した<ref>国立歴史民俗博物館所蔵「造六条八幡新宮用途支配事」、『寒河江市史 大江氏ならびに関係史料』p.390-397</ref>。建治3年([[1277年]])12月、時宗の嫡子・[[北条貞時|貞時]]の[[元服]]に際し、泰盛は[[烏帽子]]を持参する役を務めて<ref>『[[建治三年記]]』12月2日条。</ref>その後見となる。[[弘安]]4年([[1281年]])の[[弘安の役]]後、弘安5年([[1282年]])、52歳の泰盛は[[秋田城介]]を嫡子[[安達宗景|宗景]]に譲り、代わって[[陸奥守]]に任じられる。陸奥守は幕府初期の[[大江広元]]、[[足利義氏 (足利家3代目当主)|足利義氏]]を除いて北条氏のみが独占してきた官途であり、泰盛の地位上昇と共に安達一族が引付衆、評定衆に進出し、北条一門と肩を並べるほどの勢力となっていた。
 
=== 弘安改革 ===
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