「ジャン・ピエール・レイ」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
m →生涯: 内部リンク修正 |
Kawaeee1975 (会話 | 投稿記録) 加筆・編纂 参考文献追加 |
||
71行目:
[[1887年]](明治21年)1月、同施設に収容されていた[[孤児]]たちが[[青年]]へと成長し職業訓練等が必要になり、もっと大きな施設が必要となったため、[[高木甚三郎]]の協力を得て[[東京府]][[小石川区]]関口台町(現在の[[文京区]][[関口]])に移転し、[[聖母仏語学校]]を設立した。レイはこの施設で孤児達の自立心を育成するため、パン製造や大工仕事などを習得させた。特にパン製造は成功を収め「[[フランスパン|関口パン]]」の愛称で呼ばれるほど周囲の住民たちの評判となった。
[[1900年]](明治33年)6月、静岡教会の主任司祭に着任し、前任の[[ピエール・ザヴィエ・ミュガビュール|ミュガビュール]]の後を引継ぎ学校設立に尽力する。県や市の当局者と何度か協議を行い、また当時、[[名古屋]]に学校を設立しようとしていたサンモール修道会(後の「幼きイエス会」)の修道院長メール・セン・マルチドと交渉し、教会の土地建物を提供する事によって誘致に成功した。その後、[[1903年]](明治36年)3月末に建物が完成し、同年4月9日、仏英女学校(後の[[静岡雙葉中学校・高等学校]])が開校した。
[[1912年]](明治45年)6月、前任の[[フランソワ・ボンヌ]]の死去を受けて後任の東京[[大司教]]に任命され、同年7月25日に自らが設計した[[カトリック関口教会]]の聖堂で[[司教]]に叙階されて着座した。[[1927年]]([[昭和]]2年)に引退するまで重要な任務を遂行した。引退後は、本郷教会に移り住み、[[1930年]](昭和5年)5月25日に死去した。▼
[[1908年]](明治41年)、健康を害したレイは転任を願い、[[横浜]]の会計職とサンモール修道院付司祭に転任し健康の回復に努めた。
▲[[1912年]](明治45年)6月、前任の[[フランソワ・ボンヌ]]の死去を受けて後任の東京[[大司教]]に任命され、同年7月25日に自らが設計した[[カトリック関口教会]]の聖堂で[[司教]]に叙階されて着座し
==参考文献==
79 ⟶ 83行目:
* 一粒の麦 東京教区創立100周年記念誌(1991年)
* 来日西洋人事典〔増補改訂普及版〕[[日外アソシエーツ]] 武内博 著(1995年)
* 宣教再開百年誌 カトリック静岡教会(1984年)
== 関連項目 ==
|