「アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン」の版間の差分

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ティリーはスウェーデン軍の迎撃にザクセンへ向かったが、[[ブライテンフェルトの戦い (1631年)|ブライテンフェルトの戦い]]で大敗して皇帝軍が不利になり、続く[[レヒ川の戦い]]でティリーが戦死、バイエルンがスウェーデン軍に略奪されるがままになると、領地を失ったマクシミリアン1世にヴァレンシュタイン続投を訴えられたフェルディナント2世の懇願を受け復職した。この時、軍の支配権、和平交渉権、条約締結権、選帝侯位を要求したとも言われる。
 
復帰を受諾するとボヘミアを占領していたザクセン軍の排除に動き、傭兵隊長{{仮リ[[ハス・フォン・アルニム=ボイツェンブルク|ハンス・ゲオルク・フォン・アルニム=ボイツェンブルク|de|Hans Georg von Arnim-Boitzenburg|en|Hans Georg von Arnim-Boitzenburg}}]]を説得して(賄賂を渡したとも)ボヘミアから撤退させ、ドイツへ深入りしたグスタフ2世の動揺を誘い北へ後退させた。しかし、かつてのように自ら鍛え上げた軍団ではなく、皇帝軍という既成の組織を指揮したこともあって精彩を欠き、[[1632年]]には[[ライプツィヒ]]郊外の[[リュッツェンの戦い (1632年)|リュッツェンの戦い]]でグスタフ2世アドルフを戦死させながらも皇帝軍は敗走した。
 
1634年2月にエーガー({{lang-de-short|Eger}}、{{lang-cs|Cheb}} [[ヘプ]])の居城で皇帝軍の[[スコットランド人]]と[[アイルランド人]]の[[将校]]によって[[暗殺]]された。50歳であった。リュッツェン戦後の行動や暗殺の理由については謎が多い。戦後は残党討伐でドイツを転戦しながら、独自に講和を結ぼうとしたことから反逆の疑いをかけられ、選帝侯位を得た後はボヘミアの王位を狙っているものとも噂された。グスタフ2世アドルフが居なくなったことで、ヴァレンシュタインの存在価値は急激に失い、裏切りの可能性から皇帝に危険視されたとも言われている。