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'''チャンデーラ朝'''(チャンデーラちょう、[[英語]]:Chandela dynasty)は、[[9世紀]]初頭から[[14世紀]]初頭にかけて、[[インド]]中部の[[ブンデールカンド地方]] (現[[マディヤ・プラデーシュ州]])に存在した[[ヒンドゥー]][[王朝]]。[[ラージプート]]の王朝でもあるチャンデッラ朝とも呼ばれる。首都は[[カーリンジャル]]、[[カジュラーホー]]、[[マホーバー]]。
[[Image:Khajuraho6.jpg|thumb|270px|right|カジュラホ、ラクシュマナ寺院]]
[[Image:Khajuraho11.jpg|thumb|270px|right|カジュラホ、ヴィシュバナータ寺院]]
[[Image:Khajuraho5.jpg|thumb|270px|right|カジュラホのパールシュバナータ寺院のシカラ(塔)]]
 
==歴史==
===成立と独立===
[[Image:Khajuraho6.jpg|thumb|270px200px|right|カジュラホ、ラクシュマナ寺院]]
[[9世紀]]初頭、チャンデーラ朝の祖である[[ナンヌカ]]という人物が[[ブンデールカンド]]を支配し、当初は[[プラティーハーラ朝]]の封臣([[サーマンタ]])であった。チャンデーラ朝は「月」から生まれた[[クシャトリヤ]]の家系とする伝承をもつ、[[ラージプート]]の王朝と自称していた<ref>小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.33</ref>。
 
しばらくプラティーハーラ朝の封臣として、 [[デカン地方]]の[[ラーシュトラクータ朝]]と戦い続けてきたが、チャンデーラ朝台頭の契機となったのは、まさしく[[916年]]から[[917年]]に行われたラーシュトラクータ王[[インドラ3世]]の北伐であった<ref>小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.33</ref>。
'''チャンデーラ朝'''とは、10世紀前半から13世紀末まで北[[インド]]、[[マディヤ・プラデーシュ州|マディヤ・プラデーシュ]]の東部、ブンデルカンド地方にあった王朝。この王朝は、「月」から生まれた[[クシャトリア]]の家系とする伝承をもつ[[ラージプート]]の王朝であることと、[[世界遺産]]にもなっている[[カジュラーホー|カジュラホ]]の寺院群を築いたことで世界的に知られる。
 
この「北伐」によって、プラティーハーラ朝の首都[[カナウジ]]は陥落し、プラティーハーラ王[[マヒーパーラ1世]]はナンヌカの[[玄孫]]にあたる[[ハルシャ]](在位:900年 - 925年)の助けを得て、ようやく王位を回復するといった状態であった<ref>小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.33</ref>。
==チャンデーラ家の台頭と独立==
9世紀初め、ナンヌカという人物がブンデルカンド地方の支配者となり、しばらく[[プラティハーラ朝]]の封臣<ref>[[サーマンタ]]といい、「従属王」(subordinate ruler)とも訳される。有力な王朝の君主の宗主権を認める一方で、自らの領地の統治権を認めてもらい、サーマンタ間も有力な者に限って、「マハーサーマンタ・アデイパティ」の称号が与えられるなど、宗主権をもつ主君との間にこまかく称号によってその地位の上下関係が定められていた。また、主君である有力王朝の君主とサーマンタたちとの関係は、父と子である兄弟たちと位置付けられ、その有力王朝を支えるためにサーマンタは、主君に領地の統治権や保護を受ける代わりに、主君に従って戦闘に参加する義務と貢納の義務があった。(cf. 山崎、小西編2007,p.215~218)</ref>として[[デカン高原|デカン]]地方などから侵入してくる勢力と戦い続けてきたが、チャンデーラ家台頭の契機となったのは、まさしく[[916年]]から[[917年|17年]]に行われた[[ラーシュトラクータ朝]]インドラ3世(位915年~927年)の「北伐」であった。この「北伐」によって、プラティハーラ朝の首都[[カナウジ]]は陥落し、プラティハーラ王マヒーパーラ1世は、ナンヌカの[[玄孫]]にあたるハルシャ(位900年~925年)の助けを得てようやく王位を回復するといった状態であった。さらに940年頃、再びラーシュトラクータ朝クリシュナ3世(位939年~966年)がカラチュリ家とも同盟して侵攻してきた。このときプラティハーラ朝は、カーランジャラを失ったが、チャンデーラ家のヤショーヴァルマン (Yasovarman / Lakshavarman、位925年~950年)がカーランジャラを奪還したことによって、自立する契機となった。またヤショーヴァルマンのときに首都[[カジュラーホー|カジュラホ]]に[[ヴィシュヌ]]神にささげる宮殿として、{{仮リンク|ラクシュマナ寺院|de|Lakshmana-Tempel}}を建設したことが知られている<ref>この寺院の建設年代は、[[945年]]ごろと考えられている。</ref>。[[10世紀]]後半のダンガ王 (位950年頃~1008年頃?)のときに碑文にプラティハーラ家を宗主とする記述を刻まなくなり、事実上独立することとなった。
 
[[940年]]頃、[[ヤショーヴァルマン]] (在位:925年 - 950年)の治世、ラーシュトラクータ朝の[[クリシュナ3世]]が[[カラチュリ朝]]と同盟して侵攻し、プラティーハーラ朝はこのとき[[カーリンジャル]]を失った。だが、ヤショーヴァルマンがラーシュトラクータ朝とカラチュリ朝を破り、カーリンジャルを奪還したことによってこの地を獲得し、自立する契機となった<ref>小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.33</ref>。
==チャンデーラ朝の全盛と衰退==
 
また、ヤショーヴァルマンのときに首都[[カジュラーホー]]に[[ヴィシュヌ]]神にささげる宮殿として、[[ラクシュマナ寺院]]を建設したことが知られている<ref>この寺院の建設年代は、[[945年]]頃と考えられている。</ref>。
ダンガ王は、[[1002年]]にヴィシュヌバナータ寺院を建設し、後にパールシュバナータ寺院を建設している。ダンガ王の子であるガンダ王(位1002年頃?~1017年頃?)の治世にもカジュラホの西グループにチトラグプタ寺院とデーヴィー・ジャガダンバー寺院が建設された。ヴィディヤーダラ王(位1004年?/1017年?~29年)のとき、[[パラマーラ朝]]のボージャ王の攻撃に打ち勝ち、カラチュリ朝の攻撃を退けるなど勢威を示した。また、カジュラホの西グループに[[11世紀]]初めに建設された[[シヴァ神]]の住みかとされる[[カイラス山]]を模したカンダーリヤ・マハーデーヴァ寺院は、王の手によるものと推定されている。
 
一方、主家であるプラティーハーラ朝が衰退すると、ブンデールカンドでの独立性を確保し、[[10世紀]]後半の[[ダンガ]] (在位:950頃~1008頃)の治世には事実上独立し、周辺諸国と争いつつ領土の拡張を押し進めた<ref>小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.33</ref>。10世紀後半のダンガ碑文にプラティーハーラ家を宗主とする記述を刻まなくなり、事実上独立することとなった。
[[1018年]]には、[[ガズナ朝]]の[[マフムード (ガズナ朝)|マフムード]]が侵攻してきて、プラティハーラ王ラージャヤパーラが首都カナウジから逃亡する事件があったが、その際にヴィディヤーダラは、封臣のカッチャパガータ家のアルジュナに命じて、敵におびえて逃亡し、王国をムスリムにむざむざ差し出したかどで<ref>この理由については、[[イスラム教|イスラム教徒]]の歴史家イブン・アルアシールの著した『完史』に記述されている(山崎、小西編2007,p.210)。</ref>ラージャパーラを殺させた。しかし、ヴィディヤーダラ自身もマフムードにかなう状態ではなく、[[1019年]]の戦いに敗れて領内の略奪をゆるし、[[1022年]]に、カーランジャラを包囲されたときには、300頭の象を献上してあっさり降伏し、貢納する代わりに統治権を認めてもらうことで和睦している。
 
[[1002年]]にダンガ王は[[ヴィシュワナータ寺院]]を建設し、後に[[パールシュワナータ寺院]]を建設している。また、カジュラーホーの西グループに[[チトラグプタ寺院]]と[[デーヴィー・ジャガダンバー寺院]]が建設された。
ヴィディヤーダラの[[来孫]]で8代後のパラマルディン王のときに[[ゴール朝]]の[[シハーブッディーン・ムハンマド]]麾下の将軍[[クトゥブッディーン・アイバク|アイバク]]によって、[[1203年]]までにカーランジャラとマホーバーが攻撃され、陥落した。[[1205年]]にトライローキヤヴァルマンによって全盛期にはとても及ばないもののブンデルガンド地方の小勢力としてある程度の勢力回復がなされ、[[1309年]]、[[ハルジー朝]]の[[アラーウッディーン・ハルジー]]によって滅ぼされるまで続いた。
 
===最盛期とガズナ朝の侵入===
[[Image:Khajuraho5.jpg|thumb|270px200px|right|カジュラホのパールシュナータ寺院のシカラ(塔)]]
[[Image:Khajuraho11.jpg|thumb|270px200px|right|カジュラホ、ヴィシュヴァナータ寺院]]
[[11世紀]]初頭の[[ヴィディヤーダラ]](在位1004―1029)の治世、マールワーのパラマーラ朝の勢力も撃退し、カラチュリ朝の勢力も破るなど、ヴィディヤーダラの治世は最盛期だった。先代に続きこの王も建築事業を行い、[[11世紀]]初めにカジュラーホーの西に建設された[[カンダーリヤ・マハーデーヴァ寺院]]は、 [[シヴァ神]]の住みかとされる[[カイラス山]]を模したものと推定されている。
 
また、[[アフガニスタン]]の[[イスラーム王朝]]である[[ガズナ朝]]が北インドに侵入し、[[1018年]]に[[プラティーハーラ朝]]の首都[[カナウジ]]が落とされた。その際、封臣のカッチャパガータ家のアルジュナに命じて、カナウジを逃げたその君主[[ラージヤパーラ]]を殺害している<ref>小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.33</ref>。この理由については、ラージヤパーラがむざむざと首都を明け渡したためとされており、[[イスラーム教徒]]の歴史家[[イブン・アシール]]の著した『完史』に記述されている<ref>(山崎、小西編2007,p.210)。</ref>。
 
だが、[[1019年]]にはチャンデーラ朝もガズナ朝の攻撃を受け、[[1022年]]に首都のカーリンジャルが包囲された。このとき、ヴィディヤーダラはガズナ朝の王[[マフムード]]に降伏し、300頭の象を指しだし、貢納を支払うことでその独立を保った<ref>小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.33</ref>。
 
チャンデーラ朝は拠点をいくつか持ち、政治的な拠点として[[マホーバー]]、軍事的な拠点としてはカーリンジャル、[[アジャイガル|アジャヤガル]]、宗教的な拠点としてはカジュラーホーが知られ、アジャヤガルを除く3つが首都であった。
 
そのうち、宗教的な拠点であるカジュラーホーは、王朝の独立時から多数のヒンドゥー寺院が建設され、[[世界遺産]]にもなっている「カジュラーホーの寺院群」を築いたことで世界的に知られる。
 
===衰退と滅亡===
ヴィディヤーダラの[[来孫]]で8代後の[[パラマルディン]]のとき、チャーハマーナ朝がブンデールカンドに侵攻し、[[1182年]]にマホーバー近郊でチャンデーラ朝の軍勢は敗れた<ref>チャンドラ『中世インドの歴史』、p.65</ref>。このとき、アールハーとウーダルの兄弟がマホーバーを救うために死んだ<ref>チャンドラ『中世インドの歴史』、p.65</ref>。
 
また、[[ゴール朝]]の[[ムハンマド・ゴーリー]]麾下の将軍[[クトゥブッディーン・アイバク|アイバク]]によって、[[1203年]]にカーリンジャルとマホーバーが攻撃されて陥落した<ref>小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.34</ref>。
 
[[1205年]]、[[トライローキヤヴァルマン]]によって、全盛期にはとても及ばないもののブンデールガンド地方一帯の勢力回復がなされた<ref>小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.34</ref>。チャンデーラ朝は独立勢力として、東のカラチュリ朝や近隣諸勢力、[[ビール族]]などとも争った。
 
しかし、[[1309年]]頃に[[ハルジー朝]]の[[アラー・ウッディーン・ハルジー]]の命を受け、[[マリク・カーフール]]がデカン遠征へと赴く途中、チャンデーラ朝を滅ぼしたとされる<ref>小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.34</ref>。
 
==脚注==
{{Reflist}}
<div class="references-small">
 
<references/>
==参考文献 ==
</div>
*{{Cite|和書|author =小谷汪之|authorlink =小谷汪之|translator=|title =世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―|publisher =山川出版社|date =2007年| isbn =}}
==参考文献==
*[[山崎元一]],[[小西正捷]]編『世界歴史大系 南アジア史1(先史・古代)』[[山川出版社]],2007年 ISBN 4634462087
*小谷汪之編『世界歴史大系 南アジア史2(中世・近世)』山川出版社,2007年 ISBN 4-634-46209-5
*{{Cite|和書|author =サティーシュ・チャンドラ|authorlink=サティーシュ・チャンドラ|translator=小名康之、長島弘|title =中世インドの歴史|publisher =山川出版社|date =2001年|isbn =}}
*肥塚隆編『世界美術大全集 東洋編14 インド2』[[小学館]],1999年 ISBN 4-09-601064-2
==関連項目==
*[[ラージプート]]
 
{{インドの王朝}}
[[Category:インドの王朝]]
[[Category:ラージプートの王朝]]
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