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'''井伊 直滋'''(いい なおしげ、[[慶長]]17年([[1612年]])- [[寛文]]元年[[6月9日 (旧暦)|6月9日]]([[1661年]][[7月5日]]))は、[[近江国|近江]][[彦根藩]]の世嗣。第2代藩主[[井伊直孝]]の長男。実母は遠藤氏。[[井伊直縄|直縄]]、[[井伊直澄|直澄]]の兄。正室は[[井伊直勝]](直滋の伯父にあたる)の娘。官位は[[従四位|従四位下]][[侍従]]、靱負佐。
 
[[寛永]]4年([[1627年]])、叙任する。幕閣で多忙な父・直孝に代わり、領地の国政を沙汰することもあった。しかし[[万治]]元年([[1658年]])に廃嫡され(家譜には「病によりて」とある)、突然出家して[[湖東三山]]の一つ[[百済寺]]に遁世した。江戸城下で育ち幼少の頃から[[征夷大将軍|将軍]][[徳川秀忠]]・[[徳川家光|家光]]父子に寵愛され、幕臣筆頭の家柄の嫡男として何不自由なく育ったために我が強い性格で、父とたびたび対立し言い争うことが多く、質素倹約を旨とした父に気に入られなかったためと言われている。家光に「直滋が家を継いだら百万石をやる」と言われたと聞き、驕らず謙虚な姿勢に徹していた直孝が激怒したという話も伝わる。<br />
 
[[寛永]]4年([[1627年]])、叙任する。幕閣で多忙な父・直孝に代わり、領地の国政を沙汰することもあった。しかし[[万治]]元年([[1658年]])に廃嫡され(家譜には「病によりて」とある)、突然出家して[[湖東三山]]の一つ[[百済寺]]に遁世した。<br />
代わって弟の直縄が嫡子となったが急逝したため、末弟の直澄が世子となった。寛文元年(1661年)に死去した。[[享年]]50.
 
代わって弟の直縄が嫡子となったが急逝したため、末弟の直澄が世子となった。寛文元年(1661年)に死去した。[[享年]]50.50。
 
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