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{{基礎情報 武士
| 氏名 = 調所 広郷
| 画像 = Zusho Hirosato.jpg
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'''調所 広郷'''(ずしょ ひろさと、[[安永]]5年[[2月5日 (旧暦)|2月5日]]([[1776年]][[3月24日]]) - [[嘉永]]元年[[12月19日 (旧暦)|12月19日]]([[1849年]][[1月13日]]))は、[[江戸時代]]後期の[[薩摩藩]]の[[家老]]。[[諱]]ははじめ恒篤、後に広郷(廣郷)。[[仮名 (通称)|通称]]は清八、友治、笑悦、笑左衛門。当時の呼称は'''調所笑左衛門'''が一般的。
== 生涯 ==
城下士・川崎主右衛門基明(兼高)の息子として生まれ、[[天明]]8年([[1788年]])に城下士・調所清悦の養子となる。茶道職として出仕し、[[寛政]]10年([[1798年]])に江戸へ出府し、隠居していた前藩主・[[島津重豪]]にその才能を見出されて
後に藩主・[[島津斉興]]に仕え、使番・[[町奉行]]などを歴任し、[[小林市|小林郷]][[地頭]]や[[鹿屋市|鹿屋郷]]地頭、[[南大隅町|佐多郷]]地頭を兼務する。藩が[[琉球王国|琉球]]や[[清]]と行っていた密貿易にも携わる。[[天保]]3年([[1832年]])には家老格に、天保9年([[1838年]])には家老に出世し、藩の財政・農政・軍制改革に取り組んだ。[[弘化]]3年7月27日には[[志布志市|志布志郷]]地頭となり、死ぬまで兼職する。
当時、薩摩藩の財政は500万両にも及ぶ膨大な
やがて、斉興の後継を巡る[[島津斉彬]]と[[島津久光]]による争いが[[お家騒動]](後の[[お由羅騒動]])に発展すると、広郷は斉興・久光派に与する。これは、聡明だがかつての重豪に似
斉彬は
嘉永元年(1848年)、調所が江戸に出仕した際、阿部に
死後、広郷の遺族は斉彬によって家禄と屋敷を召し上げられ、家格も下げられた。葬所は養父清悦と同じ江戸芝の[[大円寺 (杉並区)|泉谷山大円寺]]。[[法号]]は全機院殿敷績顕功大居士。現在の墓所は[[鹿児島市]]内の[[福昌寺 (鹿児島市)|福昌寺]]跡。
== 評価 ==
[[明治維新]]の実現は薩摩藩の軍事力に負うところが大である。薩摩藩が維新の時に他藩と異なり、新型の蒸気船や鉄砲を大量に保有し、羽振りが良かったのは
借金踏み倒しの面ばかりが強調されているが、広郷の真価はその後の薩摩藩の経済の建て直しにある。膨大な借金を作るような体制を作り変え、[[甲突川五石橋]]建設など長期的にプラスと判断したものには積極的に財政支出を行うことにより、最終的には50万両にも及ぶ蓄えを生み出している。しかし、これは
広郷はまた、斉興と斉彬の権力抗争の矢面に立ち、その憎悪を一身に受けた。その後、斉彬派の[[西郷隆盛]]や[[大久保利通]]が[[明治維新]]の立て役者となったため、調所家は徹底的な迫害を受け、一家は離散する。斉彬排斥の首謀者は斉興とその側室の[[お由羅の方]]だったが、この2人は斉彬の死後に事実上の藩主となった久光の両親であり、弾劾出来なかったので、
現在、[[鹿児島県]][[鹿児島市]]の天保山公園には広郷の銅像がある。また[[鹿児島市]][[平之町]]平田公園北側の旧邸宅跡地に
== 家系 ==
調所家は[[本姓]][[藤原氏]]を称する。初代・藤原調所(ちょうそ)恒親(つねちか)が[[藤原
広郷の相続したのは調所大炊左衛門の養子、調所内記の次男である調所善右衛門を家祖とする調所家で、[[万治]]2年の石高は10石であったことが、『万治鹿府高帳』より知ることができる。
広郷の三男・[[調所広丈]](読みをちょうしょに改称)は、[[札幌農学校]]初代校長・[[札幌県]]令・[[高知県
<!-- なお薩摩史が専門である歴史家の[[原口泉]]の母方は調所家の家系といわれている。-->
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[[Category:幕末薩摩藩の人物]]
[[Category:日本の財政家]]
[[Category:調所氏|ひろさと]]
[[Category:1776年生]]
[[Category:1849年没]]
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