「ヘレニズム」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Dexbot (会話 | 投稿記録)
m Removing Link FA template (handled by wikidata)
著しく中立性を欠く独自研究と思われるためコメントアウト。実際の学説に基づいた記述ならば出典を示して下さい。
7行目:
[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス大王]]の東方遠征によって東方の地域に伝播したギリシア文化が、[[オリエント]]文化と融合して誕生した文化を指してヘレニズム文化と称する場合がある。この文脈でヘレニズムの語を用いたのは、19世紀[[ドイツ]]の歴史学者[[ヨハン・グスタフ・ドロイゼン]]である。ドロイゼンの功績は、それまでマケドニアによるポリス征服までが古代ギリシア史の重要範囲とされていたため、ほとんど省みることがなかった征服以降の時期に脚光を当てたことである。これによって、多くの研究者の関心がこの時代に向かい、研究が前進することになった。
 
<!--しかし、この文脈での「ヘレニズム」という視点が、多くの問題を残したのも事実である。まず、この見解を示したドロイゼン本人が、19世紀を生きたドイツ民族主義者であり、[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題]]などに積極的にかかわり、軍事力による[[ドイツ統一]]に理解を示した人物であった。こうした彼の心情は、広大な世界を武力統一したアレクサンドロスの軍事行動を美化させ、被征服側の主張に対して盲目になることを余儀なくさせたといえる。また、アレクサンドロスの征服と「ギリシア化」を一種の「文明化」のような文脈でとらえることは、当時の「暗黒大陸」アフリカを「[[啓蒙]]」しようとする思想にも通ずるもので、[[ヨーロッパ中心主義]]との批判もある。同時代にギリシア語([[コイネー]])が各地に広まったのは事実であるが、既にアケメネス朝の時代より商用語としての[[アラム語]]が各地に普及しており、広大な世界における意思疎通は、アレクサンドロス以前より十分に可能であった。アケメネス朝の時代より各地域の文化は融合・発展しており、ことさらこの時期に流入したギリシア文化の役割だけを過大評価することは、それ以外の文化を軽視しているともいえる。-->
 
=== 時代区分としてのヘレニズム ===