「尾上菊五郎 (3代目)」の版間の差分

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立花左近 (会話 | 投稿記録)
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==来歴==
江戸小伝馬町の建具屋の子。[[尾上松助 (初代)|初代尾上松助]]([[尾上松緑 (初代)|初代尾上松緑]])の養子となる。はじめ尾上新三郎、のち初代[[尾上榮三郎]]を名乗り、天明8年(1788年)11月江戸[[市村座]]『源氏再興黄金橘』{{smaller|(げんじ さいこう こがねの たちばな)}}で初舞台。文化5年(1808年)、父の代役として『[[彩入御伽艸]]』{{smaller|(いろえいり おとぎ ぞうし)}}の[[小幡小平次]]の水入りをつとめたのが出世芸となる。以後は父譲りの怪談や早変わりで人気を集め、翌年には父の名跡を継いで二代目[[尾上松助]]を襲名。文化11年(1814年)に三代目[[尾上梅幸]]を襲名したのち、文化12年(1815年)に三代目[[尾上菊五郎]]を襲名した。
 
三代目菊五郎は[[市川團十郎 (7代目)|七代目市川團十郎]]・[[岩井半四郎 (5代目)|五代目岩井半四郎]]・[[松本幸四郎 (5代目)|五代目松本幸四郎]]らとともに[[化政文化|化政時代]]の江戸歌舞伎の黄金時代を作り上げたが、人気絶頂時に舞台を去り、猿若三丁目に餅屋を開いて菊屋万平と名乗る。だが舞台が忘れられず嘉永元年(1848年)には[[大川橋蔵]]と改名して上方の舞台をつとめたが、江戸への帰途、[[掛川]]で客死した。