「アントン・ドレクスラー」の版間の差分

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ドレクスラーは新党の副代表、ついで代表に就任したが、党内ではヒトラーが頭角を現す。ドレクスラーはヒトラーに無断で他の右翼政党との共闘や合併を協議したため、1921年7月11日にヒトラーは離党を宣言した。しかし3日後にヒトラーは党への復帰の代わりに自分に党運営の独裁権を与えるよう書面で要求、党執行部がこの要求に屈したためヒトラーは復党した。7月25日、ドレクスラーはミュンヘン警察にヒトラーを危険人物であると密告し警告したが、とりあってもらえなかった。7月29日、554票中553票を得てヒトラーは新党首に選出された。ドレクスラーは名誉党首に祭り上げられ、党での実権を失った。
 
[[画像:Bloedorde 1934 Duitsland.jpg|thumb|「[[血の勲章|1923年11月9日記念メダル]]」(通称「血盟勲章」)]]
1923年11月の[[ミュンヘン一揆]]の際、自宅にいたドレクスラーは呼び出されたが、ヒトラーの計画を聞くや恐れて参加しなかった。しかし一揆の失敗後しばらく逮捕された。この事件によりナチ党が一時解散を強いられたとき、ドレクスラーは「民族ブロック」に参加し、1924年に[[バイエルン州]]議会議員に当選した(‐1928年)。1925年には民族社会主義人民同盟を設立している。同年ナチ党が再建されたがドレクスラーは加わらず、復党したのは[[ヒトラー内閣]]成立後の1933年になってからであった。1934年には党創設者としてヒトラーから、「[[血の勲章| 1923年11月9日記念メダル]]」を授与されたが、以後も政治的影響力は全くなかった。ドレクスラー自身は、この勲章授与に感激し、以後熱烈なヒトラー支持者となった。
 
[[第二次世界大戦]]中の1942年に隠棲先のミュンヘンで死去した。