「大石大三郎」の版間の差分

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元禄15年(1702年)7月5日、[[大石良雄]]とその妻りく([[香林院]])の三男として、母の実家の[[但馬国]][[豊岡藩]]の[[石束毎公]]邸にて誕生。この頃、父良雄は山科にいたが、浅野家お家再興が挫折して吉良家討ち入り計画を進めようという時期にあり、妻りくや子らは罪が連座しないように絶縁されて山科から豊岡に戻されていた。この時りくは妊娠しており、豊岡で出産することとなる。そして生まれたのが大三郎であった。
 
その後、父良雄や長兄[[大石良金]]は[[吉良義央]]の首級を挙げて[[泉岳寺]]の主君[[浅野長矩]]の墓前に捧げ、お預かりの大名屋敷で切腹した([[元禄赤穂事件]])。この事件を契機に父良雄は英雄化したため、その遺児である大三郎を[[広島藩]][[浅野氏|浅野本家]]が欲しがるようになり(次兄の[[大石吉之進]]は早世し大三郎が唯一の生存していた男子)、大三郎が12歳になった[[正徳 (日本)|正徳]]3年([[1713年]])9月に広島藩仕官が決まり、豊岡を出て広島へ移っていった。広島藩では父良雄と同じ1500石の知行と広島城二の丸の屋敷を与えられた。
 
なお、母りくは連座を避けるための書類離婚だったため、赤穂浪士の行為が幕府に対する反逆ではないと判断されたことから、浅野本家に仕えてからは大石姓への復籍仕官が許可され、子の大三郎は大石姓で仕官した。当時としては稀である。