「避病院」の版間の差分

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==発足に至る経緯==
[[1876年]]、[[アモイ]]から寄港した[[アメリカ海軍]]の船内から[[コレラ]]が広まり、国内で[[パンデミック|爆発的な流行]]となった。日本では、既に[[江戸時代]]末期より、幾度と無く多数の死者を出す流行が見られており、早期対策の重要性を認識していた明治政府は、虎列刺病(コレラ)予防心得([[内務省 (日本)|内務省]])とともに避病院仮規則([[警視庁]])<ref>[http://kindaidl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1939074/21 『改正類聚京都府衛生要覧. 明治20年11月』](国立国会図書館近代デジタルライブラリーコレクション)</ref>を整えた。実際には、[[1878年]]頃から日本各地で避病院の設置が進められ、患者の収容・[[隔離]]体制が整えられた。
 
江戸時代においては[[天然痘]]が発生した場合、[[熊本県]]では[[天草]]の下馬刀島に隔離し、死後墓を建てたという<ref>朝日新聞熊本版 2011年5月8日 p29</ref>。
 
==避病院と収容患者の状況==
病院という形式は取っていたものの、コレラは未知の病であり治療を施す余地は少なかった。また、当時は医療従事者が少なかったこともあり、現代の医療水準からすれば感染者を隔離するだけの施設という状況にあった。当時の患者側の意識も、「コレラは[[祟り]]」という時代であり、[[加持祈祷]]で回復を試みたあげく症状を悪化させ、末期的症状になってから運ばれてくるケースが多く「生きて帰れる場所ではない」という風評に拍車を掛けた<ref>巷間では生き血をとられて絵具にされるといわれていた[http://kindaidl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920354/74 「更紗の絵具は避病院で取る生血」1882年6月16日東京絵入新聞『新聞集成明治編年史. 第五卷』](国立国会図書館近代デジタルライブラリーコレクション)</ref>。政府は、通達等で官憲による収容も可能とするとともに、患者の加持祈祷を規制した。
 
==避病院の設置場所==