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'''張世東'''(チャン・セドン, {{Lang|ko|장세동}}, [[1936年]][[9月27日]] - は[[大韓民国]]の軍人・政治家。号は'''南村'''(남촌)
 
[[全斗煥]]に最も忠誠を尽くした[[第五共和国 (大韓民国)|第5共和国]]の中心メンバーで、全斗煥の後継候補として名前も上がった。
 
==経歴==
[[全羅南道 (日本統治時代)|全羅南道]]高興郡{{仮リンク|道陽邑|label=道陽面|ko|도양읍}}出身。[[本貫]]は{{仮リンク|仁同張氏|ko|인동 장씨}}。
陸士卒業後間もなく北極星会(ハナフェの前身)に入る。
 
その後、第1空輸特戦団中隊長として服務し、陸軍大学を修了。大尉であった1965年よりベトナム戦争に従軍。1966年4月19日から4月20日にかけ[[クイニョン]]北部24 kmの炭鉱地域で行われた戦闘では、肩に銃撃を受けるも耐えながら戦闘を続け、部隊の士気を上げてベトコン43人を射殺、1個中隊を全滅させる武勲を上げてメディアに大々的に報道された<ref>『중대장 부상하자 치열한 육박전』[[東亜日報]]1966年05月03日6面、政治面</ref>。この時、慰問で病院に来た全斗煥に「君こそ真の兵士だ」との言葉をかけられ、「その時、その言葉を聞いて、生涯忠誠を捧げることを決心した」という<ref name=A>[http://blog.joins.com/media/folderlistslide.asp?uid=lee8072&folder=1&list_id=11585163 張世東が全斗煥を裏切っていない理由](フリージャーナリスト、カンボジア研究所代表イ・ジェミョンのブログ)</ref>。
・[[1960年]] [[韓国陸軍士官学校]]卒業(16期)
 
・[[1967年]] 首都警備司令部 第30警備大隊 作戦[[将校]]
 
・[[1977年]] 首都警備司令部 第30警備団長
 
・[[1980年]] 特殊戦司令部 3空輸旅団長
 
・[[1981年]] [[全斗煥]]大統領 警護室長(~[[1985年]])
 
・[[1984年]] 予備役編入(中将)
 
その翌年、首都警備司令部第30警備大隊の参謀に配属される。奇しくも、その部隊長こそ全斗煥であった。以後、張は全の右腕としての生涯を歩むことになる。
・[[1985年]] 国家安全企画部長(~[[1987年]])
 
戦後は陸軍本部附や{{仮リンク|大韓民国大統領警護室|label=大統領警護室|ko|대한민국 대통령경호실}}警護官を経て、第30警備団長であった1979年、[[粛軍クーデター]]に関与。全斗煥の政権掌握後、第3空輸特殊作戦旅団長を経て1981年、大統領警護室長に就任。[[ラングーン事件]]では全大統領の車に同乗していたため事なきを得た。その後、事態を防げなかったとして辞表を提出したが、全大統領に諌められた。
・[[2002年]] 第16代大統領選挙に無所属で出馬、辞退。
 
1985年より[[大韓民国中央情報部|国家安全企画部長]]に就任。{{仮リンク|統一民主党結党妨害事件|ko|통일민주당 창당 방해 사건}}、{{仮リンク|スージー・キム事件|ko|수지 김 사건}}等様々な政治工作に暗躍。
==人物像==
しかし、1987年に発生した「[[朴鍾哲]](パク・ジョンチョル)拷問致死事件」などの隠蔽工作が失敗し、世論の激昂を買う。国家安全企画部長を引責辞任することでし、[[盧泰愚]]が次期大統領候補として一本化された。
民主活動家や野党からは「[[死せる孔明生ける仲達を走らす]]」になぞらえ「'''死せる鍾哲生ける世東を走らす'''」と言われた<ref>{{Cite news |title=술과 문학은 한 몸이여
|url=http://shindonga.donga.com/docs/magazine/shin/2011/05/19/201105190500006/201105190500006_4.html
|newspaper={{仮リンク|新東亜 (雑誌)|label=新東亜|ko|신동아}}
|date=2011-06
|accessdate=2015-07-29}}</ref>。
 
民主化後、[[金泳三]]・[[金大中]]政権下の真相究明でこれらの工作活動が次々と明るみになり、1994年4月12日、統一民主党結党妨害の件で最高裁判所刑事2部で有罪が確定し1年6ヶ月刑に服した。1997年には粛軍クーデターおよび[[5・17非常戒厳令拡大措置]]の追求で懲役3年6か月の判決を受けたが、同年12月に恩赦。
全斗煥に最も忠誠を尽くした[[第五共和国 (大韓民国)|第5共和国]]の中心メンバーで、全斗煥の後継候補として名前も上がった。
 
しかしスージー・キム事件では、被害者遺族からの損害賠償請求で敗訴した国に代わり14億5000万ウォンの損害賠償請求を負担する判決を受けた<ref>{{Cite news |title=전두환처럼…6억3천만원 뭉개는 장세동
しかし、1987年に発生した「[[朴鍾哲]](パク・ジョンチョル)拷問致死事件」などの隠蔽工作が失敗し、国家安全企画部長を引責辞任することで[[盧泰愚]]が次期大統領候補として一本化された。
|url=http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/588130.html
|newspaper=[[ハンギョレ]]新聞
|date=2013-05-19
|accessdate=2015-07-27}}</ref>。
 
== 年譜 ==
* [[1960年]] 2月23日 - [[韓国陸軍士官学校]]卒業(16期)
* [[1967年]] 首都警備司令部 第30警備大隊 作戦[[将校]]
* [[1977年]] 首都警備司令部 第30警備団長
* [[1980年]] [[特殊戦司令部]] 3空輸特殊作戦旅団長
* [[1981年]] [[全斗煥]]7月 - 大統領 警護室長(~[[1985年]])
* [[1984年]]12月7日 - 中将昇進とともに予備役編入
* [[1985年]] 2月19日 - 国家安全企画部長(~[[1987年]])
* [[2002年]] 第16代大統領選挙に無所属で出馬、辞退。
== 人物像 ==
無口で義理堅い人物として知られており、とりわけ全斗煥への忠誠心は揺るぎないものであり{{仮リンク|第5共和国聴聞会|ko|제5공화국 청문회}}では「男は自分の理解者のために死ぬものだ」、「私は歴史の車輪に敷かれて死ねども、閣下が拘束されるのであれば阻止する」と発言した。1997年に恩赦で釈放された際には、全の自宅を訪れ「報告します、閣下!只今休暇より戻って参りました!」と言ったという<ref name=A/>。
 
また、ベトナム戦争で負傷した際には軍医に拳銃を抜いてまで「私の部下から治療してください。私は最後に世話をしてほしい」と言ったといい<ref name=A/>、民主化後の獄中では規律ある生活を崩さず、看守や事務員を罵倒するような真似もせず、敬語で紳士的に応対していた。そのため刑務所内での知名度は「大統領レベル」であったという<ref>[http://www.newsen.com/news_view.php?uid=201210091947141310 현진영이 감옥서 만난 장세동은? “감옥내 인지도 대통령 수준”]</ref> 。
== 登場作品 ==
* 『[[第4共和国 (テレビドラマ)|第4共和国]]』([[1995年]]、[[文化放送 (韓国)|MBC]]) - 演:{{仮リンク|ペク・チュンキ|ko|백준기}}
* 『{{仮リンク|コリアゲート (テレビドラマ)|label=コリアゲート|ko|코리아게이트 (드라마)}}』([[1995年]]、[[SBS (韓国)|SBS]]) - 演:{{仮リンク|キム・ソンイル (俳優)|label=キム・ソンイル|ko|김성일 (배우)}}
* 『{{仮リンク|三金時代 (テレビドラマ)|label=三金時代|ko|도양읍}}』([[1998年]]、[[SBS (韓国)|SBS]]) - 演:{{仮リンク|イ・ドンシン|ko|이동신}}
* 『[[第5共和国 (テレビドラマ)|第5共和国]]』([[2005年]]、[[文化放送 (韓国)|MBC]]) - 演:{{仮リンク|ホン・ハクピョ|ko|홍학표}}
 
== 脚注 ==
{{Reflist}}
{{脚注ヘルプ}}
 
[[Category{{DEFAULTSORT:韓国の軍人|ちゃん せどん]]}}
[[Category:1936年生|ちゃんせどん韓国陸軍の軍人]]
[[Category:韓国の政治家]]
[[Category:1936年生]]
[[Category:1936年生]]
[[Category:全羅南道出身の人物]]
[[Category:存命人物]]