「石井弘寿」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
50行目:
{{by|2002年}}にファンからの公募により[[五十嵐亮太]]と共に[[ロケットボーイズ]]の愛称が付いた。この年は大きく飛躍し、セットアッパーとしてリーグ最多の69試合に登板し、6勝2敗5S、防御率1.51の成績で[[最優秀中継ぎ投手]]に輝く。69試合の登板は、[[金田正一]]の記録を46年ぶりに超える球団新記録である。また10月11日の対横浜ベイスターズ戦(神宮球場)、自己最速155km/hを計測した<ref>{{Cite book|和書|year=2014|title=日本プロ野球偉人伝 vol.14 2000→2005編|page=88|publisher=ベースボール・マガジン社|id=ISBN 978-4-583-62118-0}}</ref>。
 
{{by|2003年}}も防御率1.99と安定し、勝ち星でも6勝を挙げたが、故障のため36試合の登板にとどまった。
{{by|2004年}}は[[アテネオリンピック野球日本代表]]に選出。{{by|2005年}}は五十嵐の故障と不調によりストッパーに転向し61試合に登板し防御率1.95、自己最多球団セーブ記録タイの37セーブを挙げた。{{by|2006年}}の[[2006 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表|WBC]]日本代表に選ばれ早めの調整を行っていたが、[[東京ドーム]]で行われた第一次リーグの韓国戦で左肩痛を発症し、二次リーグに向けて渡米するも肩の悪化で離脱する。一定以上の活躍でメジャー移籍が容認される見込みだったが、一軍では11試合の登板に留まった。オフにスワローズ残留を前提とした[[手術]]を受けた。