「ムスチスラフ3世」の版間の差分

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[[1185年]]、[[ホロール川]]でのポロヴェツ族との戦いに参加し、戦いを終結に導いた。
 
[[1195年]]、[[チェルニーヒウ|チェルニゴフ]]のオレグ一門が[[ヴィーツェプスク|ヴィテプスク]]への遠征軍を組織し、途上で[[スモレンスク]]の地を破壊し始めた。ムスチスラフは、叔父のスモレンスク公[[ダヴィド・ロスチスラヴィチ|ダヴィド]]により、スモレンスク公軍の長に置かれ、迎撃に出た。戦闘そのものは勝利に終わったが、[[チェルニゴフ公国]]軍と[[ポロチャーネ族ツク公国]]に背後を衝かれ捕虜になっている。また、1197年には叔父ダヴィドの死によりスモレンスク公となった。
 
[[1214年]]、従兄弟の[[ムスチスラフ・ムスチスラヴィチ]]が[[ノヴゴロド公]]となり、ムスチスラフをキエフ大公とした。なおムスチスラフ・ムスチスラヴィチは、次の夏までに[[ハールィチ|ガーリチ]]に基盤を築いている。